第四章では、意次らの打った経済政策の行方と、治済の陰謀と、酷烈きわまる天災と、田沼政権の崩壊が描かれます。題して「蟲喰まれる樹」です。
楽庵で意次が言ったように田安家家老の大屋明薫が栄転し川井が後任に入ります。大屋はあとで重要な役割を演じる人物です。川井が定信の白河藩邸移りの策を講じた直後、急逝します。寛永通宝真鍮四文銭や南鐐二朱判を考案した優秀な配下を意次は喪い呆然とします。
安永五年四月、ついに日光社参が挙行されます。家康の命日4月17日に日光東照宮に詣でるのです。出発は13日、前日の夜に先陣が発向し、奏者番の若手大名三人が二時間ごとに颯爽と出陣したあとは、老中の出陣です。『徳川實紀』には各将ごとに事細かく一陣の様子が記録されています。武威豊かに行軍する幕閣、幕臣らの一大ページェントをありありと描くことに努めました。これは行軍演習の目的もありますから、川には仮橋を架け、舟橋を用意し、大層な仕度で行われます。よほど壮大な行列ですから江戸市民は見物にでたことでしょう。
関宿は利根川から江戸川が分流するところで、城址があって見物に値します。鈴木貫太郎の生家があった町でもあります。権現堂川はいまでは櫻の名所となって埼玉県民の楽しみの場です。御成道沿いの土地は、埼玉県の有力な観光地が控え、この節を書いているときは、地元をいっそう好きになったことを思い出しました。
山梨県北杜市本谷川の渓流。
東京が茹で上がるほどの暑さの日、ここは涼しく
バーベキューができました。
川井死亡、残念の一言です。
後々 大家が定信を意次の意図と違う方向に導いていきそうな予感がします。
日光社参の描写を読んで、その規模の大きさに驚きました。
関宿には鈴木貫太郎の生家があるとのこと、薩摩焼の窯元が集中している鹿児島県日置市美山には東郷茂徳記念館があり、東京裁判後療養中の東郷に宛てた鶴丸高校同窓生の激励文などが展示してありますが、残念ながら訪れる人は少ないようです。