第二章六節「糸を張る」では、意次と大奥御年寄の松島の会話が描かれます。意次が、家治に側室を持つように勧めた折、意次も側室をもつならば、という条件で家治が承諾した経緯がありました。
家治にすれば、側室に上がる知保と品を守るため、うがった見方をすれば倫子を慰めるためにも、意次の意を体して大奥に出入りする意次の側女がいればいいと考えたのでした。よほど気が利き、松島との微妙な会話をこなし、御台所の倫子や、新しく上がった側室のお知保とお品とも打ち解けられる若い女となると、難しい人選になりました。
随分と時間がかかりましたが、松島の援助を受けて、ようやく、意次が新しい側女を入れることを松島に報告にきたという場面です。
大名家の間で、娘を嫁にやり取りして親戚になるのは普通のことでした。その縁戚関係は政治資産になります。意次は、それ以上に複雑な縁戚関係を作って、狙う人と遠戚関係になろうとします。意次は、新しく迎える側女をふさわしい身分とするため、出入りの医師の養女としました。その医師には娘がいました。その娘を意次の狙う人の側女に上げれば、医師の家を介して、意次は、意中の人と遠戚になれるのです。
意次は大名とも、幕僚高官(例えば石谷)とも親類関係の糸を張って、政治資産を増やしていきます。大奥にも人気が高く、幕府要路といくつもの縁戚関係を持ったために、意次は強い政治力を保持したという側面があります。
ただ、当時の婚姻は似た階級と行い、釣り合った家同志の婚姻が望まれたため、どの大名、どの幕僚も似た家と縁組しました。特に意次だけということではありません。ただ意次の場合、主導力をもった政治家だったので、その周りに縁戚関係を持った大名や幕僚が集まったようにみえたのでした。
現代の感覚では素直には納得できない複雑な縁組ですが、当時のこの階層では善政・改革を行うためにも必要な常識的な手段だったのでしょう。
将軍家との縁戚を利用して政治への影響力増加を考えた島津重豪、斉彬を思い浮かべました。
今の世の中でも名家、名門といわれる血筋を遡って行けば、なるほどと思うような縁組が多々あるようです。
大多数の一般庶民には関係のない話ですが.....。