第二章五節「銀を出さず」では、勘定奉行で長崎奉行を兼任した石谷清昌が長崎赴任前に、意次と政策を打ち合わせる場面が描かれます。幕府初頭には絹織物の輸入が盛んで、大名はじめ、豪商がこぞって高級絹織物を身に付ける風潮ができました。その反面、日本から輸出する製品は少なく、決済は主に金や銀で行われました。
織豊時代から、日本は空前の金銀ブームに沸き、いくらでも取れるような活況を呈します。秀吉が大坂城にため込んだ金の量は大変なものでした。
当時、メキシコのポトシ銀山は有名で、欧州の銀相場が下がってフッガー家が没落したほどです。佐渡の鶴子銀山もそれに匹敵するほどの大銀山でした。德川時代初期、日本人は鷹揚に金や銀で決済し、清人やオランダ人は笑いが止まらなかった状況が続きます。
新井白石は、輸入超過、金銀流出に危機感を覚え、警鐘を鳴らした人です。いかに大量の金、銀が流出したか、本文にも書きましたが、白石の著作を見れば現代の私たちも驚きを覚えます。当然、幕府は金銀流出を抑えにかかり厳格な制限を課しました。そうした状況の中で、清昌は、輸出品を多くして貿易の活性化をはかり、幕府財政に寄与する方策を意次に説明したというわけです。
ベトナムの通貨単位はドンと言いますが、これは日本語の「銅」が転訛したものだそうです。寛永通宝という銅貨は良質で、アジアの国々に大量に流出しました。越南の通貨単位に今もその遍歴をとどめています。銅は意次の時代、まだまだ採掘でき、竿銅で決済される貿易はしばらく続きます。
飯山市の福島新田の棚田。前方に見えるのは平地の田。ここは随分高いところに開かれた棚田です。
解説ありがとうございます。
ますます、今後の展開が楽しみになりました。
写真は鹿児島市西千石町の大中寺にある薩摩義士の墓です。
限定された地域経済、また商人が数多潤っても幕府財政が窮迫する図式を理解できました。
石谷清昌の具体的な施策、それを踏まえた意次の財政政策が楽しみです。
厳しい状況であろうロシア経済も頭の片隅に置いて読ませていただいています。