第二章七節「ひれを喰う」では、日本の銅で清の銀を買う長期契約の締結が眼目となります。清との間の銅・銀交換契約です。こうした契約はオランダとの間にも結びました。十七世紀に大量に流出した金銀買戻し政策といえるでしょう。意次らは、銀地金を貯え将来の銀新貨発行に備えていました。当時、ヨーロッパの銀相場は下がっていましたから、日本には有利な交換率でした。
読者にお伝えすべき当時の経済状況は、およそ次のようなことでした。
① 清では銅不足で銅貨(少額貨幣)を発行できずに困っていたこと、
② 長崎に来航する清の船といっても、浙江、広東、越南など広範囲の地域から出航していたこと、
③ 日本の俵物(なまこ、あわび、ふかひれ)によって中華料理が一段と発展したこと
④ 日本は銅と俵物の増産によって銀を入手する政策を強く推し進めたこと
⑤ 日本は十八世紀の初頭、世界一の産銅国だったこと
これだけでは小説にならないので、当時の対清貿易、清の交易船ジャンクの外観、その出航地、受け入れ地の長崎・梅香崎と交易品の保管蔵、清の商館(当時の人は「清」とは言わず「唐」と通称していました)、会食の様子など、できるだけ文献と絵画史料に沿って正確に記述しました。後半の意次の政策を御期待ください。
田舎の実家にあった真鍮四文銭(寛永通宝)と天保通宝(天保銭)です。寛永通宝は四文と額は明示されていませんが裏の波でそれとわかります。天保銭は「當百」と百文であることが明示されています。現在の価値に換算することは難しいのですが、仮に、一両を二十万円とすると、真鍮四文銭(寛永通宝)は200円、天保通宝(百文)は5000円となります。
貨幣鋳造策、産業振興策、輸出入政策、米価安定政策等々今後展開されるであろう幕府政策を理解できるよう熟読していきたいと思います。
先般のブログで紹介されていた「大坂堂島米市場」を読んでみたのですが、18世紀にこれほどの金融市場があったことに驚きました。金融商品に疎いため、すべてを理解できたわけではありませんが、大枠は掴めたと思います。
江戸時代も今の世の中と変わらず、頭脳明晰で商才に長けた人が多かったのでしょう。