第二章「田に実らざる富」一節「重きを背負う」では、倫子の手厚い介護を受けて家重が歿する様が描かれます。倫子は、これまでの家重の心配りに感謝しながら、親身になって死に臨む舅に接します。
一方、家重から財政再建の負託を受けた意次は、どのような手を打つかあれこれ考え、これまでの幕府財政の在り方を振り返ります。
幕府創建以来、百有余年の間に国を挙げて営々と新田を拓き、農法を練り上げて精緻な米作りができるようになりました。雑草一本ない美田が広がる農村風景は、この時代の集約的な農法、精農主義という考え方にして初めて可能なものです。
その結果、米の収穫量が増え、人口も増え、慶長五年(1600年)には1200万強の人口が、享保六年(1721年)には3100万強まで増加しました(『人口から読む日本の歴史』鬼頭宏)。すごい増加率です。この人口増加が可能だったのは、米の増産があったからであり、しかもその増産の結果、幕府希望米価が下落してしまったのです。
この間、貨幣経済が広まって、これまでのように米と交換して物を買うことが不便ですたれたため、米は喰うだけの一商品になりました。たくさん穫れれば、あるいは供給が需要を上回れば、当然、安くなるというわけです。幕府や諸藩は、年貢米を売った代金で貨幣をえて歳入とするわけですから、米価安では、現金収入が減って財政が逼迫します。
貨幣経済の発展とともに、商家は富み、武家が貧窮することになってきました。商業を重視しなかった德川家のつけが回ってきたのでした。德川時代では、武士は武士らしく武道に励み、米を貴んで、金などになずむものではない、という考え方が強くあったようです。「貴穀賤金」という言葉がありました。
江戸時代中期の経済史をわかりやすく小説的に表現したつもりですが、うまく伝わったでしょうか。経済学を知らない私にとって、江戸時代経済史は相当に難物でしたし、第一、小説に書いて面白いのか、悩んだところでした。このパートで江戸時代経済の概略を掴んでおいていただければ、以後に出てくる経済の話(対外貿易、新貨発行、広く薄い課税など)に滑らかにつながっていきます。
なるほど、幕府の財政悪化のからくりを理解できました。
幕府財政が悪化していたことは知っていましたが、原因を深く考えたことはありませんでした。
全く関係はないと思いますが、田の神様の説明板を読んでいて薩摩藩は新田開発に田の神様の石像を利用していたかもしれないと思ったことがあります。
「田之神(田代野)
南九州では、田圃を見晴らす畔や道の辺りに特徴のある石像が建てられている。これが田ノ神である。
ここ田代野の田ノ神は、祠堂になっていて、吹上では駒田にあるだけというめずらしいものである。(「山之神」と銘があるので、山の神ともいわれている。) 田之神は、百五十石に一体あるいは農家二十軒の集落に一体置かれ、集落の神様として祭り、豊作を祈るものである。
農民の仕事の往来で供え物が出来るように、便利な路傍や田の畔に立てられていて、像は、田圃が開けた方角を向いているのが普通である。
以前は、田圃の中ほどにあったが、耕地整理の際、現在の場所に移された。
日置市坊野地区公民館」 (“田代野の田の神”説明板 日置市吹上町田尻)