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執筆者の写真佐是 恒淳

『将軍家重の深謀-意次伝』第三章六節

 第三章六節「百年を計らう」は、南鐐二朱判の発行から始まります。川井の満を持した政策でした。明和五匁銀を発行し瀬踏みした経験を踏まえ、二朱とは刻印せず、八枚で小判一枚という交換比率を明示したところが大きな特徴です。銀遣いの牙城、大坂を強引に金に連繋づけるようなもので南鐐二朱判は大坂で抵抗を受けましたが、次第に重宝がられるようになり、明和九年から文政七年に到る58年間に593万3千両余に達するほど大量に発行されました。

 近世まで通貨は金属で作られ、金のような貴金属が高額貨幣になりました。手持ちの金属量が通貨量を決定しました。経済発展とともに必要な通貨量も増え、金の生産や貿易で得る金貨がそれに追いつかないとき通貨不足を招き、デフレ方向になっていきます。そうした状況にあって、銀で作った金貨は金貨通貨量をふやせる画期的な方法でした。


 石谷、川井らの大先輩(ほぼ祖父の世代)の勘定奉行に荻原重秀という天才的な経済官僚がいました。このひとは、「貨幣は国家が造る所、瓦礫を以ってこれに代えるといえども、まさに行うべし」といって貨幣改鋳を断行し、元禄の好景気時代を作りました(『勘定奉行荻原重秀の生涯』村井淳志 集英社新書)。割れた瓦片でも国の信用の刻印があれば、通貨であるという主張で、改鋳、荻原の場合、品位低下の改鋳で巨額の出目を幕府にもたらしました。新井白石が貨幣の改悪と称して荻原に反対し、罷免を強く将軍に進言しました。後世の人も白石につられる形で、荻原は長く、悪い経済政策を実施したと批判されました。実は、この考え方は現在の管理通貨制度そのものであり、世界の経済学の水準から200年も前に唱えられた先進的、余りにも先進的な考え方でした。ケインズが、金本位制を物々交換にも似た未開社会の遺物と見抜き、そのくびきから自由な管理通貨制度へ移行すべきと説いたのは1923年の『貨幣改革論』でした。


 石谷や川井らが荻原の説を信奉したかどうか史料はありませんが、金貨を作るのに何も金である必要はないと言わんばかりに南鐐二朱判を発行したのには、こうした考え方があったのではないかと思いたくなります。大坂の米市場、現代の通貨管理制度に匹敵する通貨理論など、18世紀日本は、経済の面で世界の最先端の金融技術を持っていたように思うのは、私だけでしょうか。


 石谷は長崎奉行を退いて勘定奉行に専念し、三年がたったころです。新たに關東一円で河岸(川港)を整備し、流通の活発化と河岸運上の徴収を計ります。経済活性化と国/国民を豊かにする政策といってよく、現代にも通じます。意次、石谷、川井らの経済の考えかたは、現代にも通じます。河川を利用した舟運が発展し、これ以降、日本を豊かにしていきます。ちなみに、石谷の招集した河岸関係者の会議に佐原から伊能忠敬(明和八年現在26歳)が出席したことが史料で確認できます。若い頃は、佐原を代表する有力な舟運業者だったのです。























赤城山覚満淵




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