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執筆者の写真佐是 恒淳

『将軍家重の深謀-意次伝』第三章五節

更新日:2022年8月5日

 第三章五節「両取りを指す」では、意次が老中格から正式な老中に昇進する場面から始まります。これで家治-意次体制は盤石というわけです。家重の遺言にして幕府の財政立て直し政策を力強く進めていける政権です。

 

 家治は何人でも側女を置けるのにそうはせず、ひたすら倫子を愛し守ってきました。その家治が愛する倫子を喪い手ひどい衝撃を受けました。家治は悲しみの淵でもがき苦しみ、傷心の余り、血迷ったように新たな中臈に慰めを求めます。運命の人、おとみの登場です。

 家治は、おとみを側に置いても、倫子亡き後の喪失感を埋められずにいます。そんな頃、治済は田安家に負けないための策謀を抱いて、新たに据えた家治の側女をもらい受けたいと申し来んで来ます。呉れれば良し、呉れずとも良しという奇手でした。


 おとみは生年が良くわからないのですが、その風貌は「即事考」(竹尾善筑 (1781-1839)著、国会図書館デジタルコレクション『鼠璞十種 第一』中の「即事考」P385)によると、こうあります。


容儀かくべつ勝れしにもなく、青黒くふとりて、さまでの風姿にあらず、故ありて田沼氏と入魂により、浚明院殿(家治公)の御次に出、後御中﨟となり、此時一橋中納言治済卿より、かの姉御所望あり、かの女性又彼御屋形へ入度由内訴により、つゐにかの方へ進ぜける。一説に、此時腹に御種ありと云々、又或説には、いろいろ交雑の噂も立。後九箇月にて御誕生ありし、今の上様是也」


 おとみは、青黒く太っていたというわけで、美女ではありません。一橋治済から所望され、おとみも一橋にいきたいと言うし、ついに家治公は一橋治済に呉れたという話が載っています。なぜ一橋治済はおとみを所望したのか、その理由は史料に書かれていません。


 おとみの産んだ男子、豊千代こそが、十一代将軍家斉となります。史料では、おとみが一橋治済の元にくるのが安永元年(1772)3月、豊千代誕生は安永2年(1773)10月、家治の胤とは思えませんが、当時はそういう噂もあったと書くものがあります。

 このあたりは、面白おかしく時代小説に書く余地があり、さまざまな作品で使われるネタです。一橋治済がおとみを所望するには、特別な理由があったに違いなく、不自然でない理由を私なりに想像しました。


 明和九年の目黒行人坂の火事は江戸時代でも屈指の大火です。明暦三年(1657)、明和九年(1772)、文化三年(1806)の大火を、三大大火と呼んでいます。

 目黒駅前の行人坂には、今も大圓寺があり、ホテル雅叙園と隣接しています。

 






















玉原高原の紫陽花

閲覧数:34回2件のコメント

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2 comentarios


北薗 洋藏
北薗 洋藏
01 ago 2022

御三家、御三卿の家柄は盤石だと思っていましたので、明屋敷の心配の部分など虚をつかれた思いです。実際に不安定だったのでしょうか?

治済の暗躍は勿論ですが、おとみ、岩本正利がどういう動きをするのか気になります。

また、意誠が治済・意次どちらに軸足を置いて動くのか、まだ判断できません。

大火の後始末もそうですが、田安家、一橋家の勢力争いが財政政策にどのような影響を及ぼすのか注目していきます。

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佐是 恒淳
佐是 恒淳
01 ago 2022
Contestando a

北薗さま、

コメントありがとうございました。


 御三家、御三卿家はどこまで盤石だったのか、というご指摘をいただきました。

 御三家は自前の家臣団と領地、城を有し、大名の筆頭の名に恥じない家でした。当主の継嗣が絶えれば、関係の深い分家から養子をとって御家の存続を図り、家の存続性は高く保たれました。

 一方、御三卿家はあくまで将軍家の家族の扱いで、自前の家臣団を持ちません。御三卿家には幕臣が幕臣の身分を保持したまま仕えていました。城はなく、領地は封土ではなく賄料に過ぎません。ただ官位は高く、将軍宗家の血筋が絶えたときは、次代の将軍は御三家より優先して御三卿家を考慮することになっていました。

 なぜこのような家を吉宗が立てたか、古い論考があります(北原「御三卿の成立事情」『日本歴史』80頁187号、1963、辻「德川御三卿の相続について」『横浜市立大学論叢』1頁37巻2・3合併号、1986)。吉宗が、一門大名として宗武、宗尹を藩屏としたくとも幕府財政の観点からできませんでした。家重の健康状態を考えたとき継嗣を儲けられるか疑問を感じた吉宗は、もし世継ぎがいなかったら宗武を世継ぎにすると考えていました。そこで一時的に養っておこうと田安家、一橋家を作ったというのです。

「三卿の家は起立の初めには必ずしもその主を常置すべきものとは定まらず、唯将軍家の子弟の養はるべき家なき間、据え置かるべき設なるが如し」(『徳川慶喜公伝』1巻P53、渋沢栄一、東洋文庫)という見方です。主いなければ明屋敷になるというのは当然だったようです。

 治済が幕府から潰されると思っていたのは、被害妄想のようなところもありますが、当事者にしてみればそう思いたくなるのも事実でした。幕府に御三卿家を存続させなければならないという思いはなかったからです。このあと、治済、定信の御三卿家出身故の悩みと恨みが交々絡み合って、憎しみが意次に向かうのが後半の流れです。

                             恒淳

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