第三章五節「両取りを指す」では、意次が老中格から正式な老中に昇進する場面から始まります。これで家治-意次体制は盤石というわけです。家重の遺言にして幕府の財政立て直し政策を力強く進めていける政権です。
家治は何人でも側女を置けるのにそうはせず、ひたすら倫子を愛し守ってきました。その家治が愛する倫子を喪い手ひどい衝撃を受けました。家治は悲しみの淵でもがき苦しみ、傷心の余り、血迷ったように新たな中臈に慰めを求めます。運命の人、おとみの登場です。
家治は、おとみを側に置いても、倫子亡き後の喪失感を埋められずにいます。そんな頃、治済は田安家に負けないための策謀を抱いて、新たに据えた家治の側女をもらい受けたいと申し来んで来ます。呉れれば良し、呉れずとも良しという奇手でした。
おとみは生年が良くわからないのですが、その風貌は「即事考」(竹尾善筑 (1781-1839)著、国会図書館デジタルコレクション『鼠璞十種 第一』中の「即事考」P385)によると、こうあります。
容儀かくべつ勝れしにもなく、青黒くふとりて、さまでの風姿にあらず、故ありて田沼氏と入魂により、浚明院殿(家治公)の御次に出、後御中﨟となり、此時一橋中納言治済卿より、かの姉御所望あり、かの女性又彼御屋形へ入度由内訴により、つゐにかの方へ進ぜける。一説に、此時腹に御種ありと云々、又或説には、いろいろ交雑の噂も立。後九箇月にて御誕生ありし、今の上様是也」
おとみは、青黒く太っていたというわけで、美女ではありません。一橋治済から所望され、おとみも一橋にいきたいと言うし、ついに家治公は一橋治済に呉れたという話が載っています。なぜ一橋治済はおとみを所望したのか、その理由は史料に書かれていません。
おとみの産んだ男子、豊千代こそが、十一代将軍家斉となります。史料では、おとみが一橋治済の元にくるのが安永元年(1772)3月、豊千代誕生は安永2年(1773)10月、家治の胤とは思えませんが、当時はそういう噂もあったと書くものがあります。
このあたりは、面白おかしく時代小説に書く余地があり、さまざまな作品で使われるネタです。一橋治済がおとみを所望するには、特別な理由があったに違いなく、不自然でない理由を私なりに想像しました。
明和九年の目黒行人坂の火事は江戸時代でも屈指の大火です。明暦三年(1657)、明和九年(1772)、文化三年(1806)の大火を、三大大火と呼んでいます。
目黒駅前の行人坂には、今も大圓寺があり、ホテル雅叙園と隣接しています。
玉原高原の紫陽花
御三家、御三卿の家柄は盤石だと思っていましたので、明屋敷の心配の部分など虚をつかれた思いです。実際に不安定だったのでしょうか?
治済の暗躍は勿論ですが、おとみ、岩本正利がどういう動きをするのか気になります。
また、意誠が治済・意次どちらに軸足を置いて動くのか、まだ判断できません。
大火の後始末もそうですが、田安家、一橋家の勢力争いが財政政策にどのような影響を及ぼすのか注目していきます。