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執筆者の写真佐是 恒淳

『将軍家重の深謀-意次伝』第三章三節

更新日:2022年10月28日


 第三章三節「驥足を伸ばす」では、意次が側用人に老中(格)を兼任する人事から始まります。門閥譜代による老中政治をそれなりに尊重する形をとりながら、その実、将軍の意向を確実に反映できる体制を少しづつ作ってきたのが家治と意次でした。ここで、その体制作りが一歩、完成に近づいたということです。決して無理はしません。

 この時期になると、年貢増徴の考え方は弱まっていきますが、では、次の財政の柱はどうするのか、幕府に倣うように各藩が模索し始めます。細川肥後藩、上杉米沢藩、徳川紀州藩など、後世に語られる藩政改革が行われ、名君と称えられる藩主が活躍するのもこの頃です。

 人材登用も盛んでした。細川重賢、上杉治憲、徳川治貞らは有能な藩主ですが、みな惣領ではなく、他家からきた養子、ないしは親類の子です。危機に遭遇した藩では有能な藩主を欲したのでした。臣下でも、意次がそうであるように、家格が低くても有能な家臣を抜擢することが多くみられました。危機感を背景に、新しい者が、新しい部下をつかって、新しいやり方を模索する世でした。当然、古い考え方との間に齟齬が起きました。古い考えからみれば、新しい考え方は米でなく商業を財政の柱に据えるように見え、武士倫理の観点から受け入れがたいと思うことが多かったのでしょう。後世からは、”幕府紀綱の最も紊乱した世”(『近世日本国民史/23巻田沼時代』39節)と言われますが、この新旧の齟齬を旧来の倫理観から見て紊乱と評価した面があるのかもしれません。

 

 とは言え、この時期、老中は安定して長期在任していました。明和六年、意次が老中格になった年の本丸老中の在任期間は、次の通りです。

①松平武元(延享4年~安永八年歿:在任34年)

②松平輝高(宝暦8年~宝暦10年、再任宝暦11年~天明元年:在任23年)

③松平康福(明和元年~天明八年:在任25年)

④安倍正右(明和三年~天明六年:在任21年)

⑤板倉勝清(明和六年~安永九年:在任12年)

⑥田沼意次(明和六年/老中格~天明六年:在任18年)


 改革に取り組みながら、老中は安定して政務に集中でき、将軍の意向が遂行されていました。享保、寛政、天保の三大改革と総称されますが、これらは景気を抑制し貨幣経済を抑えて、商業が武家政治に取って代わる実力をもたないようにする目的があったように見えます。明和、安永の改革とは言いませんが、意次の改革だけが商業を発展させ、貨幣経済の実りを幕政に取り込もうとしました。現代の目から見て理解できる”改革”だと思うのです。

 寛政の改革も天保の改革も長くは続きませんでした。水野忠邦が老中を罷免されたときは、江戸庶民が大喜びで水野邸に押し掛け、石を投げつけたと伝わっています。貨幣経済のない世に戻れば、昔風の武士が昔風の生活を送れるのに、という妄想が松平定信、水野忠邦にあったのではないかと思いたくなります。支持されない改革でした。


 意次は昇進御礼のため大奥へ挨拶に出向き、倫子と松島に白金を贈ります。これも史料に明らかなのですが、意次は事前に幕閣に許可を求めました。その承認を得て御礼を贈ったということは、いかにも公明正大。後世の悪意に満ちた噂のような、陰湿な大奥工作などでは決してないということです。

 意次は二人を相手に最近の消息を語り合います。側職として将軍家治の私生活から、表職として幕政にまで幅広く目を凝らしイニシャティブを握った意次の日常です。石谷清昌が長崎から戻り勘定奉行専任になり、新しい財政策を考え始めるのは、もう少し、後段になってからです。























霧ヶ峰からビーナスラインを望む。

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