第三章七節「毒棘を刺す」では、一橋治済が田安家に引き離されて不利になることを恐れ悩んでいます。その悩みは、一橋家と田安家のいずれかが、近く、幕府によって潰されるのではないかということです。将軍血筋をプールするという御三卿家の役目は、当分、必要とは思えない状況で、田安家の賢丸は武芸学問の秀でた若君だと幕臣の間で評価が高まり、しかも、その妹の種姫が将軍世継ぎの家基に嫁げば似合いだと噂されるに及んで、治済は一橋家の不利を気に病みます。家治の御手付き中﨟をいただいたのも、なんとかして不利な状況を脱したいという足掻きのようなものでした。
その治済が、ついに、田安家に先制の謀を仕掛けます。賢丸が邪魔なら養子に出させてしまえばいいとの策は、松平定邦に賢丸を養子にとる意義を吹き込むところから始まりました。この策は見事当たって、定邦から言上し田安賢丸を養子にほしいとの願いは幕閣、将軍の賛意を得て早速、承認が下りました。田安家の困惑をよそに、賢丸は白河藩松平家の養子に出されます。後の松平定信です。
その直後、あろうことか、田安家当主治察が二十二歳の若さで亡くなり、当主を喪った田安家は明屋敷となってしまいます。治察の若死にまでは予想しないまでも、治察は病弱で有名な人でしたから、やっぱり、と多くの人が思いました。もともと田安家は賢丸を養子に出すことをを嫌がり、その上、当主まで亡くなったのですから、賢丸の養子縁組を破談にし、賢丸に家を継がせたいと田安家が望むのは人情として理解できます。賢丸はいつまでも田安邸に居座っていました。
治済の謀の仕上げは早く賢丸を白河藩邸に移すこと、こうなれば養子縁組を破談にはできません。そのために打った治済の謀略が切れ鮮やかです。
賢丸の養子の流れは、史料に基いた話です。ただ、この流れを治済が謀ったのか、そこは史料も黙して語りません。実際に起きたことは全て一橋治済に有利に働き、田安家には不利です。意次を含む幕閣にも、ここまで一橋家を有利に、田安家を不利に扱う動機はありません。動機を強く持つ唯一の人物は一橋治済だと思うのです。この謀略は、定信が後年、知ることになるようです。定信の『宇下人言』(うげのひとこと、宇+下=定、人+言=信、つまり自身の名を分解した題名です)には、こう書かれています(岩波文庫P30)
十六のとし(註:実は十七、安永三)にか有りけむ。定邦公の養なひとはなりたり。もと この事は田邸にても望み給はずありけれども、そのとき執政ら、おしすゝめてかくはなりぬ。そのころ治察卿にもいまだ世子ももち給はず侍れば、いとど御よつぎなきうちは如何あらんなど聞こえけれども、さりがたきわけありしこと、この事は書きしるしがたし。
言う訳にはいかない事情があった、と定信が書いています。治済の謀略で自分が養子に出されたことを後年知って、治済を怨むこともあったのかもしれません。
田安賢丸が養子に行って、松平定信になった頃、江戸は寒い冬を迎えました、隅田川が凍ったというから、想像を絶します。同じ頃、テムズ川もニューヨーク湾も凍ったと読んだことがあります。小氷河期だったのだそうです。
恒淳
「銀で作った金貨」「藩境にとらわれない交通網整備とその課税」、なるほど、なるほど、と納得するばかりです。
田安賢丸が松平定信だったとは .....養子の件で定信は治済のみでなく意次にも恨みを募らせていくのでしょうか、今後のストーリーを追っていきたいと思います。一橋治済はもちろん、松平定信の動きからも目を離せなくなりました。寒さも飢饉をにおわせるようで気になります。
小説とは直接関係ありませんが伝馬の部分を読んだ時、鹿児島県内探索中に西暦800年前後に作られた「市比野(檪野)駅跡」、江戸時代の荷駄の中継地「駄繰(ダグリ)跡」に偶然遭遇し、中央から遠く離れた薩摩・大隅の地にも道路網がある程度は整備されていたことを知って驚いたことを思い出しました。