第一章八節「輪をつなぐ」では、家重が嫡男家治に将軍職を譲り二ノ丸でひっそりと余生を過ごす様が描かれます。徳川實紀第九篇の惇信院殿御實紀附録には、家重は「御多病にのみわたらせ給ひけれども、また風雅の御このみも有しとぞ、ことに木草の花を愛玩し給ふよし…」とあって、花を好んだことが記録されています。
家重は身の丈に合った静かな生活を一年ほど過ごし、次第に体調が衰えてきます。前にもご紹介した篠田先生によると、持病の排尿障害が顕著になり、尿路感染を起こし、最後は尿毒症を発症したと推察されています(『徳川将軍家十五代のカルテ』)。
家重は、己の許で意次らに立案させた財政再建計画を家治の治世で実行に移すため意次を重く用いるよう家治に言い置きます。
主殿はまたうとのものなり。 行々こころを添て召仕はるべきよし、御遺教ありし… (德川實紀第十篇浚明院殿御實紀附録巻二)
”またうと”とは全人、眞人などと宛てられる例があって、全(まった)き人、正直者、人格完成者のような意味だと思われます。家重にとって、意次は財政再建策を実施する担当者として必要ですが、家治を教導する指導者とも見ていたようです。
私が若い頃、心を動かされたあるエッセイがあります。それは、「生命の鎖」と題され、福島県立医科大学の整形外科教授が、身障者の相談業務での経験を書いたものです(福島県医師会報69頁、昭和56年4月号)。教授によると、相談に見えた老人は脳性小児麻痺のため手足が不自由で、生活歴を聞くと、幼少の頃から母親に背負われ小学校に通い、その後、靴屋に奉公して靴修理を習ったが、戦時中のことで役立たずだの非国民だの言われ辛い思いをしたとのことでした。戦後、独立して靴屋を開き、聾啞の女性と結婚して、靴修理のかたわら身障者の生活相談員をこなし立派に暮らしておられるのだそうです。御夫婦は、五体満足なお子さんに恵まれ、いい青年となって、この日、父親に付き添って病院にきたというわけです。
そこで、教授がその老人に言ったそうです。「不自由な体で苦労されたでしょうが、努力の甲斐あって自分の店をもち、なにより、立派な息子さんをお持ちです。あなた方御夫婦は不自由な体で不幸を嘆いたこともおありだったでしょうが、立派な息子さんがあなたと奥さんの生まれ変わりなのですよ。五体満足な体に生まれ変われたというものです」と語りかけると、老人は喜んで帰っていったという話でした。
その教授は、生命とは個々の身体の寿命に留まるのでなく長い年月にわたるものであって、個々の体は長い生命の”一時的な乗物”であり、長く延びる”生命の鎖”の一つの環であると説いておられました。何十年かぶりにこのエッセイを読みなおし、感銘を新たにして小説の題材に盛り込みました。家重の苦悩と家治を見る喜びの想いは、このエッセイを下敷きに書いてみました。
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