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執筆者の写真佐是 恒淳

『四本の歩跡』第四章四節「薩摩の血気」

 これまで、長州の暗殺者や土佐の暗殺者を書きましたが、この節から薩摩の暗殺者を登場させます。この小説において重要な人物ですから、できるだけ心の内面に立ち入った描写を心がけました。出自、育ち、森山との出会い、公知暗殺の被疑者と目された背景、凄絶な死、薩摩藩に及ぼした影響など、明らかな事実は丁寧に拾い、心理描写は私の創作を交えて人物を造形しました。このあと数節は田中新兵衛を軸に書いていきます。


 

高瀬川一之船入 この少し北側に竜宮門(現存)で有名な善導寺がありました。

 島田左近は二度も暗殺者に狙われましたが、うまうまと逃げおおせました。初めて襲われたのは中京区堺町通リ丸太町下ル半町西側の自宅、二度目は九條家の伏見領地でした。それから一か月後、文久二年7月20日夜、島田左近は、木屋町二条下ル茶寮山本ゆう方で元祇園町三升家の抱え芸者君香と夕食の膳に向って酒を飲んでいました。真夏の暑さに裸となって川辺の板の間で小女二人にうちわで扇がせていたと言います。そこへ田中新兵衛、鵜木孫兵衛、志々目献吉の三人が飛び込んで左近めがけて斬りつけました。左近は煙草盆を投げつけ逃げ出しましたが、善導寺の前で追いつかれ、首を討たれました。(幕末維新 京都史蹟事典/島田左近の邸跡P119より)。

 この事件から、天誅と称する暗殺が横行します。狙われるのは、井伊の為に動いた者(幕吏と公家家司を問わず)、公武合体を目指し幕府に宥和的な者の配下の者などです。政敵に恐怖を与え、朝廷を壟断して破約攘夷に持って行こうとする攘夷急進派の仕業でした。


 一之船入から高瀬川沿いに下ると、大村益次郎寓居跡碑、佐久間象山遭難跡地碑、桂小五郎寓居跡碑(現「幾松」)、大村益次郎遭難之碑、長州藩邸趾碑、池田屋騒動之趾碑、吉村寅太郎寓居跡碑、土佐藩邸趾碑などがあり、すごい地域です。

閲覧数:6回2件のコメント

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2 Comments


北薗 洋藏
北薗 洋藏
Sep 21

佐是様、


長年虐げられ血気に逸った下級武士たちによる連続テロ、大騒乱が始まったようです。人斬り実行犯たちは、はたして確固たる政治思想を持っていたのか疑問です。薩摩の人斬り中村半次郎は郷士、田中新兵衛は薬種商あるいは船頭の子、蓄積された差別による鬱憤が人斬りの発端だったのではないでしょうか。


古地図で調べたわけではありませんが、新兵衛は前ノ浜の出身、現在その地名は残っていませんがJR鹿児島駅(鹿児島市浜町)付近ではないかと思います。私が生まれた場所は鹿児島駅北側の恵美須町(現上本町)、田中新兵衛とご近所さんだと勝手な想像をしています。


はたして公知暗殺の実行犯は新兵衛だったのでしょうか。薩摩は朝廷での発言力を自ら弱めるようなことはしないように思えますが、今後の展開を注意深く追っていきたいと思います。

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佐是 恒淳
佐是 恒淳
Sep 24
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北薗さま、

鹿児島生れの方から、前ノ浜、浜町、上本町、恵比寿町と新旧の地名を伺うと、リアリティを感じ、わくわくしました。薩英戦争は「前ノ浜戦(いっさ)」と呼ばれ、砲撃戦を代表する地名であると知りました。船頭の仕事をするには最適の立地だと思いました。

薩英戦争で焼かれたのは上町でしたから、上本町の辺りかと思ったりしました。鹿児島市は、町名が多少変わっても、町の大筋は変わらないようで、史蹟満載の町ですね。


ご指摘のように、薩摩が田中新兵衛を使って姉小路を暗殺するはずはないと思います。姉小路が賊から奪った刀が新兵衛の佩刀だったので、新兵衛が疑われてましたが、薩摩を犯人に仕立てる陰謀工作だと当時から言われていました。私もそう思い、小説では、誰がどのような工作をほどこしたか、小説中段に書いてみました。


お彼岸のため、家を空けてご返信が遅くなり、失礼しました。猛暑も収まりつつあるようです。暑さ寒さも彼岸まで、ですね。

                          恒淳


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