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執筆者の写真佐是 恒淳

『四本の歩跡』第四章十節「杜鵑の啼き音」

更新日:2 日前

 幕府の威権が失墜して朝廷の言いなりにならざるを得ず、将軍が江戸に帰ることすら思うにまかせない状況に陥りました。幕府に主体性を発揮することが許されないとき、朝廷(要するに攘夷激派公家)が千余の精鋭を引き連れた小笠原に遠慮するかのように、即座に家茂の帰還を許しました。

 朝廷内に、幕府側に立って調整する人物がいないために、小笠原が兵を率いて入京しても大きなことは出来なかったと考えられます。将軍が江戸に帰る許しを出させたことでよしとする幕府の判断は正しかったと思います。それに従った小笠原も抑制の利いた人でした。

 小笠原の兵諫の挙は、容保にとって、おおいに参考になったことでしょう。八月十八日の政変では、その数日前に容保が薩摩から提案を受けた時、即断即決したことが成功につながった一つの要因だったかもしれません。即断即決ができた背景には、小笠原の兵諫の失敗の経験があったのだと思います。今度は、小笠原の時と違い、朝廷内にしっかりした調停者がいる、という事情は、容保に強く響いた筈です。


 先日の衆議院選挙で大敗した総理大臣は、己の本来の政策を実行に移せず野党の意見を容れながら政権を運営していく方針のようです。文久三年の幕府の姿に重なって見えました。主体性を発揮できない政権が、成果を上げ国民の支持を得ることは難しいように思えます。文久三年の幕府もこんな感じであれば、倒幕してもっと強い政権のもとで日本を外国の侵略から守るという倒幕論が世に湧き起こるのも無理ないと思います。ぶれず、自信をもって、主体性を発揮することは政府の必須の要件でしょう。

 総理大臣は己の信念でやりたい政策があって、それを実施するための手段として政権を取るというのが本来の姿です。己の政策を実行できずして政権維持を図るのは本末転倒です。

この時期、幕府も弱くなってしまいましたが、開国通商を維持し富国強兵をはかって侵略に備えるという大目標は、ぶれていません。今の政権より、本末を踏まえていたように見えます。


初めて生成AIに画像を作らせてみました。キーワードは、「夜の川、三日月、松、城、水墨画風、江戸時代」です。淀川河畔の雰囲気を期待しましたが、べたな感じの絵ができてきました。夜の川と三日月だけのキーワードでは、きらきらした色附きの洋風な絵でした。キーワードを追加して絵を修正させる経験を初めて持ちました。見るに足りないとばかにするべきか、数語のキーワードでここまでの絵を描いてみせると驚くべきか、ハイテク時代に少しうろたえます。

閲覧数:8回2件のコメント

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2 Comments


北薗 洋藏
北薗 洋藏
Nov 02

佐是様、


姉小路公知暗殺の影響が極めて大きかったことを理解できました。

朝廷内に攘夷過激派勢力がここまで伸張する前に手を打てなかったものかと思ってしまいます。長年、禁中並公家諸法度で圧力をかけつづけ、朝廷を軽んじていたようにも感じます。

過激攘夷派が徳川御三家水戸藩の水戸学に影響されている事も皮肉に思えます。徳川斉昭の存在も幕府には不利に働いたようにしか思えません。

理非を問わない過激攘夷派と説得に苦心する幕閣の様子を読むうちに、山荘管理人を人質に取った浅間山荘事件を思い出しました。幕府は過激攘夷派に朝廷を人質に取られ、結局取り返せなかったというふうに思ってしまいました。


生成AI、キャッシュレス決済など苦手なことが増えていきます。このような様々な技術も次世代の人たちは、紙と鉛筆のように使いこなしていくのでしょうが、少々怖いような気もします。とは言え、理解する努力だけはしなければ。

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佐是 恒淳
佐是 恒淳
Nov 03
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北薗様、

 おっしゃるように、幕府は禁中並公家諸法度で厳しく朝廷を統制し、政治的な力を持たぬように注意を怠りませんでした。天皇から公家全員に一万石しか与えず、天皇からして貧乏生活を強いられました。ましてや下級公家の困窮振りは第三章-實美に書いた通りの有様でした。朝廷は確かに軽んじられていました。

 そこに、徳川斉昭から思想の毒薬一滴が朝廷に垂らされ、幕府の通商開国方針、条約締結方針が、朝廷から感情的に拒否されました。ここからから、幕末の動乱が始まります。

 弱い筈の朝廷が強い幕府とどう対峙するか、安政の大獄を経て悩み抜いていたとき、桜田門外の変で、当の井伊直弼が暗殺されてしまいます。朝廷は、この衝撃の機に応じて、(幕府から言えば「嵩に着て))思想的に幕府を追い詰め、ついに尊皇攘夷の大義を打ち立て、まずは思想戰で勝利を収めました。武力だけではなく、いや武力以上に大切なのは大義、思想だと思います。これによって幕府は鼻づらを引き回されます。


 テクノロジーの発展によって、今や文章を書くのに紙とペンを使いません。現在の道具やインフラが我々の少年のころといかに異なるか、思うと面白くも感慨深いものがあります。今昔比較は年寄のやることと決まっていますが、1960年代と2020年代の差はかつてないほど大きなものがあります。蒸気機関(1770年代から英国で)、コンピュター(1960年代から米国で)は、社会をがらりと変えてしまいました。次は何なのか、興味深くも、怖い気が致します。


                       恒淳

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