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執筆者の写真佐是 恒淳

『四本の歩跡』第四章十四節「天覧に供す」

 天覧馬揃えを二回やって、会津藩は練武のほどを帝から褒賞されました。誉を上げただけでなく、帝の篤い御信頼を得ました。幕府と朝廷の調整役をミッションの一つとする会津藩にとって、帝の御信頼は御役の遂行に欠くべからざるものでした。


 この時期、会津藩の軍事力に目を付けたのは薩摩の高崎正風でした。京都藩邸にわずか150ほどの兵しかいないとあって、軍事クーデターで長州の攘夷激派を追い落とすことが不可欠の事態にどう対処するか悩んでいました。攘夷激派(三条実美ら)から中川宮(以前は青蓮院宮とも)への圧迫が強まり、宮を京都から九州に赴任させる勅命(どうせ偽勅です)が出されるに至って、もはや、他藩の兵力を借りるしか手はありませんでした。そこで、会津藩と手を組んで、八・一八の政変が実行すると薩摩は決断しました。高崎がただの歌人ではなく、優れた戦略家だったと思います。


 一体、この計画は、京都の薩摩藩邸の主だった藩士だけで遂行したのか、本国の久光の意向があったのか、よくわかりませんでした。国父久光は最も厳格な統制主義者ですから、これほどの計画を家臣に勝手にさせるはずがありません。薩英戦争で高崎が帰国している時期から、多くの計画が幾通りも練られ、久光と高崎が親しく語り合ったことは想像に難くありません。その高崎が薩英戦争の報告かたがた上京してきたのは7月23日です。政変まで一か月を切る時期から高崎の活動が始まります。会津藩へ提案したのは8月13日、政変のわずか5日前です。よくぞ、この短時間に会津が決断し、関係者と打合せ、手順を決めたものだと思います。高崎によって大筋ができていたとしか考えられません。短時間だからこそ、秘密が守られたのかもしれません。


 統制主義者久光の信任するのは高崎左太郎、奈良原幸五郎、大久保一藏で、その第一の優等生は大久保でした。大久保は側近となって久光から寵用される間に、増々、統制主義者になり、それが明治以後の大久保の政治路線を決定し、後継者によって受け継がれ、やがて習慣化し、何の疑問もなく日本はこの路線を走り続けて昭和二十年に大敗戦に至るとは、海音寺潮五郎の見たてです(『西郷隆盛』8巻「薩英戦争」)。海音寺は西郷好きの余り、大久保を嫌うふしがあります。

 そこまでは少し言い過ぎかもしれないと私は思います。長州の影響だって無視できません。明治4年、西郷が上京し御親兵を設置したとき、主力は薩摩の4個大隊5000名でした。この軍事力を背景に廃藩置県を一気にやってのけます。明治6年になると、征韓論に破れ西郷が参議、近衞都督を辭任して薩摩に帰りました。このとき、薩摩藩出身者の軍の幹部が大量に辞職し、西郷を追って国に帰りました。そのあとを埋めたのが長州出身者で、このときから陸軍の長州閥が成立します。山縣有朋に率いられた長州閥陸軍も、相当、統制主義と身贔屓を持ち込み、大敗戦に至るのだと考えられると思います。明治から昭和に至る陸軍には薩長の新政府軍体質が残っているのかもしれません。


 次回で連載も終わります。



整然と整列し威儀を正して軍装検査を受けました。





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2 Comments


北薗 洋藏
北薗 洋藏
2日前

佐是様、


朝廷に風雲の兆しを犇々と感じました。

政変直前の薩長と朝廷内の勢力状況等々理解できたように思います。

薩摩藩、会津藩にとっても高崎正風、秋月悌二郎二人の存在は極めて大きかったのではないでしょうか。

やはり、久光の性格からは正風が単独行動で会津と接触したとは考えられないと思います。

会津、薩摩中心の企てに閣老が関与していないことに寂しさを感じないでもありません。

それにしても、あれほどの下関戦争の敗北に遭いながらも攘夷の方針を変えない長州過激派に疑問を感じます。この時点で攘夷慎重派が動かなければ、亡国に繋がったのではないでしょうか。


次節は最終回とのこと、少々寂しさを感じますが楽しみに読ませていただきます。


写真は「高崎正風翁之碑」(鹿児島市長田町)です。



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佐是 恒淳
佐是 恒淳
5時間前
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北薗さま、

高崎正風翁之碑の写真をありがとうございました。これまでも薩摩の偉人関係の写真を多く賜ってきましたので、今回も、何か高崎正風関連の御写真を戴けるかと、内心、期待するところもありました。幕末に活躍した薩摩の偉人関係の写真を、見事にコレクションされているのがよくわかります。


この時期、長州とそれに呼応する公家ら攘夷激派の常軌を逸した行動は、もはや看過できないところまで行きました。間違いなく、軍事的な倒幕運動まであと一歩のところです。この一歩を進めれば、大規模な内乱の突入したことでしょう。海外列強の干渉を呼び込むかもしれず、ご指摘のとおり、亡国に成り果てた可能性が高いと思います。


高崎は御歌所の長を明治21年から45年まで勤めた人だったようです。香川景樹に代表される桂園派の達人ですから、明治期宮中はこの流派が主となって古今集を重んじる風だったということでしょう。この流派は明治も中期になると、正岡子規が「歌よみに与ふる書」によって手酷く批判されることになります。連載された新聞「日本」を高崎正風はどう思っていたか、ふと興味を覚えました。今、「坂の上の雲」の再放送で、病床で苦しみながら正岡子規が原稿を書く場面が放映されるので、思った次第です。高崎は、西郷から嫌われたため、政治家ではなく、こういう道を歩まざるをえなかったのかもしれません。


秋月悌次郎のことは、司馬遼太郎の「ある會津人のこと」(『余話として』所収)に面白い話が書かれています。戊辰から御一新以降、当然、秋月は貧乏します。明治23年、67歳で熊本の第五高等学校に呼ばれ、漢文を講じました。明治26年一月、文久三年の政変から30年ぶりに、高崎正風が熊本に住まう秋月を訪ねてきて、終夜、痛飲して、翌日の講義の下調べができていないため、授業を勘弁してほしいと学生に謝って休講にしたのだといいます。当時、五高の同僚小泉八雲から最上級の敬意を呈された秋月は、明治33年、77歳、東京で没します。


                        恒淳


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