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『四本の歩跡』第四章十五節「八月十八日夜雨」

執筆者の写真: 佐是 恒淳佐是 恒淳

更新日:2024年12月9日

 この小説は、文久二年十月二十二日、松平容保の亡妻、敏の一周忌から始まり、京都守護職松平容保、老中格小笠原長行、權中納言三条実美、右近衞權少将姉小路公知の四人の全く異なる視点と立場から激動の時代を見つめ、翌文久三年十月九日、容保が宸筆を賜った日まで、およそ一年間を追ってきました。文久年間の激しい時の流れを理解するため、多くの人の異なった歩みや来歴を振り返り、過去に遡って来し方を描いてみました。

 ある日、起きた事件でも、その意味を知るには何十年もの過去から知っておかなくてはなりません。事件はある日突然起きたようでも、その内包する経緯が厚く積み重なっています。幕末に起きた事件を知るには、過去に遡って多くのことと人の感情がこびりついた時の流れが分からなければなりません。


 京都守護職のような高度に政治的、軍事的な職権が容保の人柄に合っていたとはとうてい思えず、容保は真面目な性格の故に、大いに懊悩したに違いありません。それでもこの職に就かなければならない深刻な事情がありました。

 世捨て人の生き方しかできないと諦観をはっきりもった長行が、時代が呼寄せたかのように不思議な縁で幕府要職に就きます。長行は有能な実務者ぶりを発揮し、幕府の危機に身を挺してことに当たります。誰もが怖れ慄いて、尻込みする仕事でした。

 江戸時代を通して経済的逼迫状態に置かれた公家社会を代表するように、三条家は名家の面目を保つことに苦心し続けました。父實萬の不遇な死をきっかけに、實美は断然、尊皇思想に目覚め反幕思想を固めていきました。長州の勤王志士と意を通じ、ギリギリと幕府を追い詰めました。實美は幕府からみれば悪辣な政治手段を弄する公家でしたが、現政権を倒すと決めた革命家としては当然の振舞だったでしょう。

 若い頃、放埓無頼を尽くした公知が、三条實萬の指導の宜しきをえて勤王思想に目覚め、名うての雄弁家となって攘夷思想を鼓吹する様は、京都論壇での偉観でした。柔軟に発想できる若々しい頭脳の持ち主だけに、西洋事情を正確に説かれると納得する心を持っていたことが命取りになりました。謀略にかかり、あえなく若い命を散らせました。いまだに、姉小路卿の暗殺は謎とされています。この暗殺をはじめとし、日本は、あわや亡国の危機を幾度も通り過ぎます。

 私には手に余る大きな主題でしたが、文久三年にいたる一年間とそれに付随する過去の来歴とで随分と長い物語になりました。日本は、ペリー来航の嘉永6年(1853)から丁度10年目、文久三年(1863)の大混乱に陥っていました。明治の御一新までは、あと5年です。この15年で徳川の世が崩壊したことになります。


 幕末を知りたくて、あれこれ調べたことから想像が膨らみ、書きあげた小説です。史料で事実を知りえても、当事者がどう感じたかは、その人の日記を読み自分で想像するしかないものです。ある事件を立場の異なる四人が見て、異なる感情をいだいたことを描くのが、この小説の主眼でした。長い間、ご愛読、御鞭撻を賜りありがとうございました。北薗さまには、鹿児島の幕末遺跡の写真を多くたまわり、それをみるたび、薩摩の人々が生々しくよみがえるようで、心が震える思いを幾度も味わいました。

 これまで、『方略は胸中にあり』以降、『種痘の扉』『将軍家重の深謀-意次伝』から本作『四本の歩跡』と続けてきました。私の習作には『鉄の湯』(江川太郎左衛門伝)なるものがあるのですが、とうてい公表できるレベルになく、手を入れることさえ難しいと判断しました。当分、ホームページに小説を掲載する活動は休止とせざるをえません。長い事、お付き合いいただいた読者の方には御礼の言葉もありません。また、いつの日にか、掲載を再開したいと思います。よいお年をお迎えください。


                          恒淳



 





 









 


 



2 Comments


北薗 洋藏
北薗 洋藏
Dec 07, 2024

佐是様、


『四本の歩跡』完結、おめでとうございます。


「八月十八日の政変」に至る幕府、朝廷、会津、長州、薩摩等の立ち位置、方針など良く理解できたように思います。この小説を読んで、私も明治維新観を変えざるを得ませんでした。


容保への宸翰、御製の存在は長く秘されていたそうですが、これが早い時期に公開されていれば倒幕勢力の動きにも大きな影響があったようにも思います。朝廷と幕府の板挟み状態の容保の苦悩も理解できました。

桜田門外の変以降、井伊政権の多くの有能な人材が処罰・左遷されたと聞きます。これが幕威衰退に繋がったように思っています。政策の正否は別として、直弼の統治力に準ずるような幕閣の人材が井伊政権以後にも欲しかったように思います。やはり幕府滅亡は必至だったのでしょうか。


折も折、韓国の非常戒厳令問題が勃発しています。韓国の国政には勿論詳しいはずもありませんが、何か八月十八日の政変に共通する点があるのかもしれないなどと思ったりもします。戒厳令など遠い昔の事のように感じていました。また日本は戒厳令法制の存在しない数少ない国だそうですが、「四本の歩跡」を読み、また世界情勢を考えれば、その必要性も一考に値するようにも感じました。


種々、様々なことを考え、感じながら読み終えることが出来ました。幕末に関する知識が豊富になったように思います。


十分に構想を練られ、またいつか作品を発表されることを期待しています、ありがとうございました。


良いお年をお迎えください。

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佐是 恒淳
佐是 恒淳
Dec 08, 2024
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北薗様、

 心に響くコメントをいただき、ありがとうございました。連載最後のコメントということもあって、寂しさと、感謝と、胸に迫るものがありました。


 幕府が崩壊するのは、ペリー来航以来15年、五か国と結んだ安政条約以来10年、井伊直弼暗殺以来8年にすぎません。外国の圧力さえなければ国内的に治まっていた強い政府が、かくも短時間に崩壊したことに驚きます。

 19世紀は、欧米列強のかくも激しい外国干渉/植民地化の時代だったことをあらためて思います。そうした考え方はウクライナで今も繰り広げられています。冷戦後、世界に民主主義がひろまりはしましたが、国情に合わない国も多くあって、民主主義が本当に成立するには、ある厳しい前提条件が満たされていることが必要なのだと思います。左右の対立厳しい韓国で、選挙、戒厳令、弾劾騒ぎなどが起きるのを見るにつけ、その条件が満たされていないのではと思い、民主主義の難しさを感じます。

 日本は明治になって、自由民権運動が起こり、藩閥政治打倒を訴える動きが生じ、明治憲法が制定され、立憲国家になっていきました。明治初年は、五カ条の御誓文の「万機公論に決すべし」との精神が上手く機能しませんでしたが、少しづつ政体を整えたいった歴史があります。その多くは、江戸時代に培われた知性と民度がもとになっていると実感します。江戸時代と明治を結ぶ水脈は少しも途絶えなかったと思います。


 そんな歴史の印象を北薗様と語り合うのも、しばし、できなくなりそうです。これまで長きにわたり、本当にありがとうございました。いろいろのことを教えていただきました。佳きお年をお迎えください。


                     恒淳

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