島津斉彬公は、開国、貿易、富国強兵の道を目指す老中阿部正弘と志を共にする同志でした。二人とも、開国を迫る外国の勢力が強くなるにつれ、この方針を固めていきました。名君と謳われた斉彬公は、集成館を建てて西洋技術とりいれ、領国を守るために砲台を築きました。前之浜に北から順に、祇園ノ洲、新波止場、弁天波止場、大門口、天保山に砲台を築き、城下正面の守りとしました。さらに、桜島対岸には袴越、洗出に二砲台を、湾内小島の烏島 、神ノ瀬島、沖ノ小島にも砲台を設け、湾内にも睨みを利かせました。現在は立派な史蹟として整備されていると聞きます。鹿児島には何回か行きましたが、砲台跡は行ったことがなく、是非、見たいと思っています。
烏島 は、当時の鹿児島湾内の小島で「烏島 赤水村の南、三町許の海中にあり」と記されています。その後、桜島の大正大噴火(大正三年一月)によって桜島と接続し、いまでは桜島の一部をなしています。
この砲台群が、来襲した英国艦隊七隻と砲撃戦を戦いました。嵐の中、薩摩は見事な戦いぶりを示し、損害を被りながらも、旗艦の艦長と副長を戦死に追い込むほどの砲撃を見せ、艦隊を追い払いました。これ以降、薩摩と英国は接近し始め、明治以降も英国と友好関係が続きました。不思議なようですが、戦を通し、互いの敬意が高まったという事なのでしょう。和平交渉の中で、薩摩はパーシュスの遺棄した錨の返還に応じ、英国海軍は大いに喜んだというエピソードが残っています。英国流の軍楽隊も、明治海軍に引き継がれました。戦った薩摩藩士たちが、「あれはよかもんじゃった」と言った話も残っています。
前之浜から見た桜島正面。幕末の桜島は、本当に陸地と離れた”島”でしたが、噴火の溶岩で大隅半島側とくっつき、今は、”島”ではありません。当時は、このくっついたあたりに薩摩軍艦が碇泊する施設があったとも聞きました。
砲台跡にのこる大砲レプリカ。当時は砲車に搭載されていたと思われます。
北薗さま、
薩摩の幕末軍事遺跡の写真を賜りありがとうございます。行ったことのない所ばかりでしたので、一つ一つ、地図で位置を確認しました。前之浜を囲むように位置することがわかり、いっそう興味が深まりました。
錦江湾を地図で見ながら英国艦隊の針路などを見ていると、面白いことに気が付きました。錦江湾開口部が、長崎鼻から対岸の立目崎までほぼ11km。江戸湾開口部が観音崎から富津までほぼ8㎞。江戸湾の方がやや狭い湾口ですが、この距離を両岸の観音崎、富津砲台からは射程距離が短く守れなかったため、幕府はペリー艦隊の江戸湾侵入を許してしまいました。錦江湾開口部でも同じように英国艦隊の湾内侵攻を防げませんでした。沿岸砲台の射程距離が5、6kmないと、江戸湾も錦江湾も艦隊侵入を守れない道理です。
一方、下関海峡は最狭部700mに過ぎません。沿岸砲台から砲弾は十分に届きます。それでも米、仏艦の侵入を許し大被害を被りました。長州の砲術が薩摩より劣っていたのかと思いましたが、どうなのでしょうか。薩摩の砲術演習海域に英艦隊機関ユーライアスが入ってきたという僥倖があったにせよ、旗艦艦長を戦死させて一矢報いたのは薩摩砲術の練度の賜物だと思うのです。
恒淳
「射場山跡」鹿児島市小松原1丁目
「煙硝倉跡」鹿児島市小松原2丁目
「砲術館跡」鹿児島市大竜町
「祇園之洲台場跡」鹿児島市清水町