薩摩には、他には見られない独特の文化があるのだと私が知ったのは、司馬遼太郎の「翔ぶが如く」「街道をゆく/肥薩の道」を始めとする多くの著作からでした。
印象的な話は、こうです。自動車の修理屋にこわれた車を持ち込んだとき、「すぐやってくれ」と頼むことを、「たちンこんめ」と言うのだそうです。「太刀の来る前」という意味だそうです。敵の太刀が振り下ろされるまえに、ということで「すぐ」という意味になるとか。同じように「いっこんめ」という副詞もあるそうです。「一騎来る前」は敵の騎馬が攻め込んでくる前に、ということで、戦国期、島津氏がこの地方を統一した頃に生まれ、「すぐに」という意味で日常語に定着し、それが今猶、生きて使われているという話でした(肥薩の道)。感心してしまいました。
そういう多くの特徴的な薩摩の人物、土俗、風習のなかに、薩摩人は現実主義だという指摘もありました。私もこれには全く同意したくなりました。関ケ原の戦いに敗れた後、軍事力を踏まえた巧みな外交力で領土を守り切った力量は現実主義者の面目躍如だと思うからです。関ケ原の敗戦で多くの領地を失った毛利と比較すれば、その外交の巧みさが明らかです。
薩英戦争の講和交渉も調べて見ると、すごい外交力だと思ったことがあります。英国が日本に見どころありと思わせたのは、幕府より薩摩なのかもしれないと思ったりもします。状況を踏まえた英国好みの冷徹な外交交渉をやったため、英国人の尊敬を勝ち得たのだと思います。世界を席巻する頃のパーマストン流の交渉ではなかったかと想像します。
薩英戦争のような危機を乗り切る覚悟のほども、まったく見事だったと思います。薩摩に対するそんな敬意をこめてこの節を書きました。
同じ頃、京都では会津藩が天覧のもと、長沼流の軍事演習をやっていました。兵の繰り引きを乱れなく整然と行ってみせ、天皇は感嘆しました。これはこれで幕末の偉観、尚武のお国柄を発揮したものでした。その後、薩摩と協力して八・一八の政変を実行し、長州の攘夷激派を京都から追い落としました。薩摩の高崎正風が政略を担当し、会津が軍事を担当した形になりました。会津一藩では、政略の点でとうていできない政変だったと思います。
薩摩の政略眼が優れているのは、日本の西南端に位置し外国情報に敏感だったこと、近衞家と遠戚で公家社会に太いパイプのあったこと、そういう環境のもとで現実主義的な戦略眼が育ったのだと思います。幕末の會津はこの点で、薩摩に敵わないような気がします。
恒淳
薬丸示顕流の太刀筋 西南戦争では小銃ごと頭部を両断された新政府軍兵士もいたとか。
一撃必殺の剣法。
佐是様、
島津久光は、この時点というか最後まで公武合体指向の攘夷慎重派だと思っています。下関戦争の原因は長州による無謀な攘夷実行、薩英戦争は攘夷実行ではなく領土防衛のための襲来打払いだったはずです。長州過激攘夷派は“成敗を問わず”の松陰思想、薩摩は反対派からは日和見といわれようが、柔軟に現実路線をとったのだと思います。考え方の全く違う、この両藩が薩長同盟に至るなど、やはり幕末動乱のせいでしょうか、不思議なものです。
本文中、英国艦隊から西洋音楽が聞こえてきた場面がありました。西南戦争前は、薩摩には軍楽隊があったそうです。その演奏にあこがれて、軍艦行進曲の作者瀬戸口藤吉が音楽を目指したということを読んだことがあります。薩英戦争がなければ、名曲軍艦行進曲も生れなかったということかもしれません。