文久三年五月から六月にかけて馬関海峡砲撃戦は5回(5/10、5/23、5/26、6/1、6/5)起こりました。最初の三回は、長州から、馬関海峡を航行しようと近寄ってきた外国船を一方的に砲撃しました。最後の二回は、長州に報復するため米、仏の軍艦がそれなりの準備を整え下関海峡周辺の砲台や長州海軍三隻を攻撃しました。準備して来航した外国軍艦はさすがに強く、長州は大きな被害を被りました。
長州にとって、成敗を問わず、やるべきことをやるのみ、というつもりだったのでしょう。長州が先駆けて外国船を砲撃すれば、その意気に感じて、幕府も他藩もこれに続くと思ったのでしょうか。当時、長州が何を考えていたのか、私には理解できません。
翌年、元治元年(文久四年)七月には禁門(蛤御門)の変、八月には四か国艦隊による下関砲撃で、長州は敗退し、いよいよ窮地に追い込まれます。私には、どれも長州の狂気じみた破れかぶれの挙動に思えますが、長州の熱誠に満ちた滅私の英雄的な行動だと賞賛する立場もあるのでしょう。松陰流の至誠不退転の姿勢こそ、旧弊徳川を倒し新生日本を築いた原動力だったと、明治以降の歴史観が形作られて行きます。成敗を問わざる行動をよしとする気風はその後も続いたような気がします。
随分と昔、私は出張でパリに行った折、空き時間を利用し戦争博物館に行ったことがあります。そこに元治元年(1864)の四か国艦隊砲撃後の仏軍上陸によって捕獲した長州の大砲が陳列されているのを見て驚いた覚えがあります。
御裳裾川公園の砲列レプリカ。下関(馬関)海峡の最狭部の砲台で対岸まで700メートルです。ここを航行する外国船にとって、いきなり撃ちかけられれば、怒るのも当然だという気がします。
佐是様、
馬関海峡の攘夷実行については、長州の外国船への砲撃、それに対する四か国艦隊の反撃があったことくらいしか知りませんでした。四か国艦隊の報復前に、米仏が既に攻撃していたこと、五回も交戦があったことなどを知りました。
長州の無鉄砲な攘夷行動は、60年台から70年台初頭にかけての学生運動を思い出しました。当時、私は訳も分からずデモや暴力を傍観するのみでしたが、今は長州の攘夷実行と重なるように思えます。理想は理想として人それぞれ違っているのも当然、それを他人が否定することはできないと思いますが、理想へ至る実行方法は現実的平和的であるべきだと思います。しかしながら、時と場合によっては暴力的活動も必要となるのでしょうか?
少なからず、私も平和ボケしているような気もしますが。
戦争、紛争の頻発する現在の世界情勢を見るにつけ、暴力を捨て去れない人間の本質が悲しくなります。