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執筆者の写真佐是 恒淳

『四本の歩跡』第四章六節「殺意の交錯」

 この節は、姉小路暗殺の構図を私なりに再構成して創作をいれながら書いてみました。

この謀略で、判明している歴史的な事実は、次のとおりです(『島津久光=幕末政治の焦点』町田明広P156)。

①現場に遺棄された刀は田中新兵衛のものだった

➁姉小路の従者中条右京は剣の遣い手であり、狼藉者に手疵を負わせた。田中も、この頃、

 手疵を負っていた。

③中条は、町奉行で自決した田中の顔を見て、犯人だと証言した

④犯人は三人だった


 当時から、犯人は誰かと、いろいろ憶測をこらす向きも盛んでした。

『中山忠能日記』五月二十二日条には、犯人は、①幕府奸吏、➁侍従滋野井公壽と大夫西四辻公業、③会津藩士、④大坂与力同心関係者 の可能性が書かれています。

『東西紀聞』『京武坂風説』には出奔した滋野井、西四辻から実行犯が頼まれ、二人が具体的な指示を下したとする黒幕説が書かれています。滋野井、西四辻の姉小路に向けた遺恨は、当時、流布していたようなのです。


 私は、姉小路を最も排除したかったのは、長州志士だと思い、寺島を想定しました。長州志士というところまでしか私の推理はいかず、長州志士の中の誰かまでは、本当は言うことはできません。寺島なら天誅の経験からこの位の謀略は考えるかなと思う程度です。あとは、小説的な構成上、寺島として書いてみました。基本的には史実に基づくという立場で書いていますが、この部分だけは根拠がありません




東山大文字あたりの京町家 

閲覧数:5回2件のコメント

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2 Comments


北薗 洋藏
北薗 洋藏
Oct 06

佐是様、


田中新兵衛は武市によって、人斬りにさせられたようなものですから、土佐勤王党一派によって公知殺害の犯人に仕立て上げられたのではと、個人的には思っていました。

新兵衛も武市に会わなければ、もっとまともな尊王志士としての人生を送れたのかもしれません。師と友は選ばなければ、ということでしょう。

真犯人が誰であったかはさて置き、薩長土の勢力争いの影響があったのは可能性が高いように思います。


商人出身の本間精一郎が登場しましたが、この時期には豪商、農民層から世に出ようという人びとも多かったように思います。森山新蔵、相楽総三、渋沢栄一、近藤勇......郷士層を含め、長年虐げられてきた鬱憤が、混乱した世の中に捌け口を求めたのだろうと思います。


寺島忠三郎、西四辻公業、滋野井公寿の暗躍を注視したいと思います。

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佐是 恒淳
佐是 恒淳
Oct 07
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北薗様、

 ご指摘のとおりだと思います。政治に関われなかった不遇の人々が幕末、世に出てきます。体制が固まって政治に関われる人が特権化し限定されていた時代は平時、平穏な世であった一面で、やりたいことをやれない人が多い時代でもあったのでしょう。才が野に埋もれていました。

 固まっていた体制に綻びが見えると、政治に興味をもつ人々がいろいろな階層から群がりでてきたのが幕末からご一新のころなのだと思います。


 昨日、東京文京区の六義園に行く機会があり、柳沢吉保による名庭を見てきました。この庭は明治の頃は、岩崎家の所有でした。岩崎家はその周辺の土地も買取り、「大和郷 やまとむら」と名付けて高級住宅街に作っていったと説明にありました。大和郷は今も高級住宅街であり続けています。大名庭園を政商が個人所有できる時代だったのだと思いました。逆に言うと、政商とは大名級の財力をもっていたのだと思いました。

 岩崎家は清澄公園も所有し、南北戦争の将軍グラントが大統領になって来日した折、ここで持てなしたとの話もあり、江戸時代の大名級の重みをもった家でした。三井家は江戸時代も豪商でしたが、岩崎家はよほどに身分の軽い地下の出身でした。幕末、世にでて一大政商になりました。政治的、経営的な才を存分に発揮し、岩崎弥太郎にとって、あるいは政府高官にとって、明治は素晴らしい世であったことでしょう。そう思う人々が各界に多くいたのだと思いました。世があらたまるとは、こういうことなのでしょう。


                  恒淳

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