小笠原が江戸に帰って、ニールに生麦事件の賠償金を支払い、間髪入れず、幕府兵を率いて海路、大坂に向かいます。賠償金支払いのシーンは、第二章十五節「沖つ潮風」にも書きましたが、この章でも異なるコンテクストで触れなければならず、賠償金支払い~小笠原の率兵上京~大坂で初めて姉小路の暗殺を知る、という流れを、この節で通して語ることにしました。
小笠原の支払ったのは四十四万ドルのメキシコ銀貨で、11万ポンドに当たります。邦貨にして二十六万九千六十六両二分二朱相当の大金でした。生麦村で一人の英国人が斬殺され、もう一人が怪我を負った事件の賠償金です。江戸に無用の砲撃を受けないために払わざるをえませんでした。就航からそれほど経っていない中古の蒸気船一隻が十万両で買えるという相場を念頭において、この額を考えると、英国の吹っ掛けようがわかります。力で脅されるということは、こういうことで、今も昔も変わりません。
小笠原の幕僚(を自任する)水野は、朝廷の命にそむき支払ったという情況を利用し、朝廷に説明と詫びをいうため上京せよと進言します。この大きな規模の小笠原の一手が、姉小路の暗殺で、崩れ去ります。うまくはいきませんでしたが、水野の途方もない戦略的な頭脳に感服します。現代にも十分通じる頭脳で、今なら戦略家として鳴らしたはずです。
そして京都では、姉小路公知の挙動に不満を覚えた寺島忠三郎がひとり策を練り始めます。松陰流の攘夷論者の思考がどのようなものか、私が想像しながら書いてみました。相当な精神論者に違いなかったと思います。
恒淳
京都御所正面 建礼門
佐是様、
朝廷の意思に叛く賠償金支払いを逆手にとって説得材料に使おうという小笠原と水野の策略に脱帽です、転んでもただでは起きないとはこのことでしょうか。
攘夷激派の考え方は精神面での筋は通っていても、合理的な見方からは論理破綻していると思います。武士道精神が主流で切腹を名誉と考える時代ですから、合理的な考え方は一般的ではなかったのではなどと思ったりもします。
姉小路公知、寺島忠三郎の動きも気になりますが、薩摩、長州、土佐の勢力争いも数々のトラブルを引き起こしたように感じています。
幕府の慶喜、容保に加え小笠原、水野、勝、小栗の行動も大いに気にかかるところです。