九条尚忠が関白に就任したのは、関白に相応しい能力、人格が備わるためではなく、摂関家という一流の貴族血統と孝明天皇が開国反対の側に立ってくれると期待したからでした。九条は、その行状が問題となって、長い事、関白になれない人でした。『幕末の朝廷』(家親良樹、中公叢書2007年)には九條の人物評がこう書かれています(160頁)。
なかでも問題視されたのが女癖の悪さであった。九条はその度はずれた「女好き」のた
め、「これが障りと成りて、これまでにも(関白職の)廻るべき順(番)ながら、かく
延々と成」った人物と噂された人物であった。
能力的に適任でない人を高位職につける弊害は、幕府より朝廷において顕著でした。幕府では、大名は、おおむね、奏者番、寺社奉行、大坂城代、京都所司代、老中という具合に昇進し能力が重視されました。幕臣は、各種、奉行につきますが、勘定奉行は家柄などを顧慮されることなく能力だけで任命される職位でした。幕府の人事はそれなりに能力主義でした。
朝廷では、家柄ごとに、どこまで昇進できるか決まっており、関白になれる家はごく限定されていました。九条尚忠の関白就任において、この弊害に気付いた公家がいると思いますが、長年のしきたり故に、あらたまることはありませんでした。朝廷だって十分、組織改革の対象にすべきでした。
明治になって、皇族、公家由来の華族、大名由来の華族、その他の華族などから貴族院が構成され、身分による立派な職位、名誉が与えられました。また、皇族には軍人になる義務が課せられ、日本の軍隊が天皇の軍隊であることを示す社会的権威としての役割も果たすよう期待されました。それは能力、適性を越えた別の要件による人選でした。
閑院宮載仁親王が参謀総長に戴いて参謀本部の権威を高めると、さらに海軍では1932年(昭和7年)2月に伏見宮博恭王を軍令部長(海軍軍令部総長)に戴きました。陸海軍が皇族を総長に就任させたことを「統帥部の人事の頽廃がはじまった」とする見解があるそうです。要は、下の者が補佐すれば組織トップはお飾りでも勤まるという考え方です。
いろいろの面で、明治期は江戸時代の身分、家柄など属人的要素を重視するしきたりを引きずって、能力以上に重視される面があったようです。敗戦まで、それが続きます。どこまで能力主義でいくのか、日本社会の深い原理とつながっているようです。
九条尚忠: 孝明天皇の妃・夙子(英照皇太后)は長女、大正天皇の后・貞明皇后は長男・道孝の四女。昭和天皇の曽祖父にあたる。
佐是様、
鷹司政通と九条尚忠をめぐる日米修好通商条約拒否への動向が楽しみです。
公知の考えの変化から、敗者の正当性、徳川幕府と南朝の類似性を考えてしまいました。
南朝の話が出てきましたが、北薗の墓所のすぐ近くに懐良親王記念碑があります。親王が征西将軍として数年間滞在していた山城が墓地になっています。墓に入る時期が来たら、後醍醐天皇や懐良親王に面会を求めてみたいものです。