朝廷において攘夷と開国のせめぎ合いは安政五年春、江戸から老中堀田正睦が上京してくる頃に、始まりました。帝は、なにはともあれ、異国と異国人が御嫌いだったようです。始めは単に異人嫌いの帝のお心が、次第にイデオロギーの磁力を帯びて、尊皇攘夷という水戸学派で磨かれた思想を強烈に引き寄せました。それが志士を惹きつけ、倒幕して德川にとって代わろうという野望までも吸い寄せました。もはや帝のお心とは遠く離れたものになってしまったのです。
開国して、醜夷を国に入れることを許せば、先祖に顔向けができないと、当初、孝明天皇は言っておられましたが、歴史的にみれば鎖國の方が異常で、開国通商の方が普通でした。鎖国は祖法などと、ロシアに付き合いを断る根拠にした松平定信の言葉が、誤解され昔から日本は鎖国を通してきたと思いこませたのかもしれません。とんだ誤解でした。
朝廷だって、開国か鎖国復活か、特に定見のある人はほとんどいなかったわけです。世界を知らぬにもほどがあると、幕府の人々は内心、怒りにも似たフラストレーションを感じたに違いありません。
そんな朝廷の混乱、幕府のいらだちから、次第に尊皇攘夷思想に転化し、ついには倒幕思想にまでいたります。これが時の勢いというもので、恐ろしいものだと思います。
拾翠亭は九條家の屋敷建物で唯一現存します。ここに九条尚忠が籠もって下級公家の言い立てるのをやり過ごしたと思うと、歴史を感じます。
佐是様、
幕末の朝廷の内情について初めて知り得る機会を得たように思います。
鷹司と九条の勢力争い、またその両者に井伊・長野が絡んだ開国/鎖国の変節、驚いてしまいました。
幕府政治に陰りが見え始めた時期とは言え、条約締結に勅許を求めることは必要だったのでしょうか。長年の朝廷からの大政委任を自ら否定してしまったように感じてしまいます。
幕威の衰えの影響で武家社会での下級武士の発言力が高まってきたように、下級公家が政治力を持つようになったことも同じ現象のように思えます。
開国/鎖国、尊王、佐幕、公武合体、倒幕......種々の考え方が変化する中、もし自分がその現場にいたとしたら判断に苦しみ、大勢に流されてしまっただろうと思います。
ますます、今後の展開が楽しみになってきました。