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執筆者の写真佐是 恒淳

『四本の歩跡』第四章三節「混迷に咲く花」

更新日:2 日前

 朝廷において攘夷と開国のせめぎ合いは安政五年春、江戸から老中堀田正睦が上京してくる頃に、始まりました。帝は、なにはともあれ、異国と異国人が御嫌いだったようです。始めは単に異人嫌いの帝のお心が、次第にイデオロギーの磁力を帯びて、尊皇攘夷という水戸学派で磨かれた思想を強烈に引き寄せました。それが志士を惹きつけ、倒幕して德川にとって代わろうという野望までも吸い寄せました。もはや帝のお心とは遠く離れたものになってしまったのです。

 開国して、醜夷を国に入れることを許せば、先祖に顔向けができないと、当初、孝明天皇は言っておられましたが、歴史的にみれば鎖國の方が異常で、開国通商の方が普通でした。鎖国は祖法などと、ロシアに付き合いを断る根拠にした松平定信の言葉が、誤解され昔から日本は鎖国を通してきたと思いこませたのかもしれません。とんだ誤解でした。

 朝廷だって、開国か鎖国復活か、特に定見のある人はほとんどいなかったわけです。世界を知らぬにもほどがあると、幕府の人々は内心、怒りにも似たフラストレーションを感じたに違いありません。

 そんな朝廷の混乱、幕府のいらだちから、次第に尊皇攘夷思想に転化し、ついには倒幕思想にまでいたります。これが時の勢いというもので、恐ろしいものだと思います。



拾翠亭は九條家の屋敷建物で唯一現存します。ここに九条尚忠が籠もって下級公家の言い立てるのをやり過ごしたと思うと、歴史を感じます。

閲覧数:6回2件のコメント

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2 Comments


北薗 洋藏
北薗 洋藏
Sep 14

佐是様、


幕末の朝廷の内情について初めて知り得る機会を得たように思います。

鷹司と九条の勢力争い、またその両者に井伊・長野が絡んだ開国/鎖国の変節、驚いてしまいました。


幕府政治に陰りが見え始めた時期とは言え、条約締結に勅許を求めることは必要だったのでしょうか。長年の朝廷からの大政委任を自ら否定してしまったように感じてしまいます。

幕威の衰えの影響で武家社会での下級武士の発言力が高まってきたように、下級公家が政治力を持つようになったことも同じ現象のように思えます。


開国/鎖国、尊王、佐幕、公武合体、倒幕......種々の考え方が変化する中、もし自分がその現場にいたとしたら判断に苦しみ、大勢に流されてしまっただろうと思います。


ますます、今後の展開が楽しみになってきました。

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佐是 恒淳
佐是 恒淳
Sep 15
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北薗様、

ご指摘のように、条約締結に勅許を求めるか否か、幕閣でも大議論になりました。岩瀬忠震らがハリスと談判して日米修好通商条約案を作成し、幕府としてもこれが最良の条約案だと、それなりに自信をもっていました。開国を拒み戦になれば隣国の清のようにされると、幕府は恐れてもいましたが、これからは国を開き外国と通商して国を富ませ、兵を強くするという意気込みでした。通商の主力輸出品は絹糸にするとまで構想ができていました。


ところが、水戸の徳川斉昭が尊皇攘夷の思想にどっぷりと浸かり、開国に大反対でした。開國が反対というより、それ以上に、開国策を推し進める老中首座堀田正睦が嫌いだったのです。阿部正弘が老中首座だったら、斉昭も、しぶしぶかもしれませんが、開国に賛成したことでしょう。


斉昭は、あくまで堀田憎しの気持ちでいますから、開国/条約締結に反対を貫き、朝廷工作(京都手入れ)をやって帝を開国反対に洗脳してしまいました。そのうえで、どうしても条約締結したいなら、勅許をえるべきで、勅許があれば自分も反対しないという話に持って行きました。その罠に堀田は堕ちました。松平忠固は、勅許など取りに行くものではないと、さんざん反対し、堀田に忠告しました。大政委任が崩れるという危機感があったからでしょう。堀田は、四年前の日米和親条約の締結時には、朝廷は何も言わなかったから勅許は降りると高をくくったのかもしれません。この大誤算から幕府は崩れていきます。


判断能力もない朝廷に、勅許を下すよう依頼すること自体が間違っているような気がします。それだけ、帝の言うことは大切だという世になっていたのだと思います。


                      恒淳

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