暗殺翌日に学習院に張り紙がなされ、三条実美を非難する内容だったことは史料にあります。姉小路と三条は中心人物で、三条にも暗殺の危機かと世間的には思われたようですが、私は、創作上、寺島から三条だけにわかるメッセージを送ったと想定しました。
三条と長州攘夷派はもはや縁の切れない間柄でした。先の話になりますが、姉小路暗殺から三か月後、会津、薩摩によるクーデター(8.18)で長州攘夷派は京都を落ちていきます。三条はじめ名立たる攘夷派公卿も同行し長州に落ち延びます。いわゆる七卿落ちです。文久年間の混乱も長州攘夷派と公家攘夷派の結託から生まれ、8.18に結託の強さをを垣間みることができます。
田中新兵衛が、森山新五左衛門の一周忌翌月の祥月命日に墓参りをして帰って来たあたりから新兵衛の身辺が騒がしくなり、自分の置かれた立場を認識します。新兵衛犯人説の一つの証拠として手の傷があげられますが、実は、新兵衛が悔しさの余り、拳を柱に叩きつけた傷ではなかったと思いながら、場面を想定してみました。新兵衛がこのあと、どのような行動をとるか、御存知の方も多いと思います。勁烈な薩摩武士道が発揮されます。
伏見鷹匠町の大黒寺には、九烈士の墓が残ります。右から順に、①有馬新七:寺田屋にて闘死/38歳、➁田中謙助:翌日藩邸で切腹/35歳、③橋口傳蔵:寺田屋にて闘死/22歳、④柴山愛次郎:寺田屋にて闘死/27歳、⑤弟子丸龍助:寺田屋にて闘死/25歳、⑥橋口壮介:寺田屋にて闘死/22歳、⑦西田直五郎:寺田屋にて闘死/25歳、⑧森山新五左衛門:翌日藩邸にて切腹/20歳、⑨山本四郎:病気療養で参加できず、歸藩謹慎の罪となったが、これを拒否、切腹/24歳。九人のうち三十歳台は二人、二十歳台は七人です。森山新五左衛門は最年少のはたちでした。
佐是様、
当時の京都の状勢から公知暗殺の真犯人を考える時、攘夷急進派の可能性は薄いと誰しも考えるのではないかと思います。
また、幕政改革を目指し、朝廷の信頼を得ている薩摩に疑いが向けられた時、その怒りが単純に田中新兵衛一人に向けられるだけで済んだものとは思えません。薩摩藩としては、攘夷派・佐幕派、あるいは薩長土を中心とする勢力争いのなかに公知暗殺の誘因があると疑ったのではないでしょうか。
薩摩の立場を危うくする、この朔平門外の変が後の八月十八日の政変の起点なのではと思えてきました。
次回以降の展開が楽しみです。