京都の攘夷急進派を唱導する一人、姉小路公知が暗殺されたのは文久三年五月二十日。今もって謎の事件です。誰が、いかなる理由で殺ったか、はっきりしていません。
写真は暗殺現場の猿が辻です。禁裏北東、鬼が来る方角なので、北東隅はこのように角を切ってあります。月も上らぬ真闇の時、禁裏北の道、朔平門前の道がどのようだったか想像するだけで不気味です。
私は創作上、姉小路暗殺事件の黒幕を長州の寺島忠三郎と想定して書き進め、寺島の死生観と田中新兵衛の死生観を考えてみました。寺島は松陰門下、吉田松陰の影響を強く受け、一方で、田中新兵衛は庇護者、森山新藏の最期を大切な心の拠り所とした人物です。寺島と田中の死生観を考えることは、吉田松陰と森山新藏の死を対比させることだと思いました。
松陰は、やるべきことは断固やるべし、事の成否を問うべきでないという行き方で、「成敗を問わず」という人でした。やるべきことを、どうせ失敗するからと言ってやりもしないことを卑しむひとでした。やるべきことは、いろいろ工夫して成功するように地固めしてから断固実行し成功に導くという風でもありません。ペリーに頼んで米国密航を企てたのも、京都で安政の大獄の指揮を執る間部詮勝を暗殺しようと企てたのも、皆、失敗しました。やるべきことを只ひたすらにやる「やむにやまれぬ大和魂」そのものでした(第三章三節「狂気と熱誠」参照)。企ては全て失敗、弟子にその狂気じみたというか、熱烈というか、強烈な訓えを見事に弟子に伝えきりました。
一方、森山新藏は武士以上に武士たらんとした人でした。それは薩摩の武士像であり、日本一の苛烈な武士の姿でした。その誇りのためには一命を鴻毛の軽きにおく武士道です。息子の新五左衛門も寺田屋騒動の翌日、粛々と腹を切り、見事な薩摩武士として死にました(第四章四節「薩摩の血気」参照)。
最期の最期まで思想を訴えて止まずに迎える死と、心静かに粛々と武士道に殉ずる死の違いです。
佐是様、
真実は不明であるとしても、本節の公知暗殺の組み立ては、あり得ないことではないように感じました。
人それぞれの考え方でしょうが、松陰流の「成敗を問わず」には、やはり疑問を感じます。無鉄砲に過ぎるというものではないでしょうか。森山新藏流の生き方に惹かれるのは私だけではないように思います。
本文中に鬼門がでてきましたが、鶴丸城(鹿児島城)の鬼門に当る北東隅の石垣は欠けて造られています。「隅欠」と呼ばれているそうです。写真はネットより拝借しました。