第四章では姉小路公知を主な視点に据え、その生い立ちから書き始めます。ブログでは、前回の第三章十五節「成敗を問わず」に関わる話を、今回も取り上げました。
セバストポリ要塞戰で有名なクリミア戦争は、嘉永6年(1853)から安政3年(1856)にかけて、強引に南下政策を進めるロマノフ朝ロシアと、オスマン帝国・フランス・イギリス・サルデーニャ(尹)の連合軍との間で戦われました。
この戦争は日本にまで影響が及び、次のような事が起こりました。
① 開戰の嘉永6年はペリー来航の年です。当時、大した海軍を持っていないアメリカが英仏を尻目に、日本と和親条約を結び(安政元年、1854)日本開国の先鞭をつけられたのは、クリミア戦争のため、英仏が日本にまで手がまわらなかったからです。
② ロシアは日本の重要性を分かっていたため、アメリカの動きに触発されて、プチャーチンを派遣しました。プチャーチンは旗艦パルラダ号以下4隻の艦隊を率い、1852年11月、クロンシュタット港を出港。1853年8月22日(嘉永6年7月18日)長崎に来航しました。ペリーに遅れること1ヵ月半でした。プチャーチンは、英国がクリミア戦争に参戦し極東ロシア軍攻撃のため艦隊を差し向けたと知り、嘉永6年10月23日(1853年11月23日)長崎を離れ一旦上海に向かいました。
③ プチャーチンは再び長崎に戻り(嘉永6年12月5日、1854年1月3日)、幕府全権の川路聖謨、筒井政憲と計6回に渡り会談しましたが、交渉はまとまりませんでした。その後、朝鮮、マニラ、沿海州などを巡り、老朽化したパラルダ号からディアナ号に乗り換え、ディアナ号単艦で下田に入港しました(安政元年10月14日、1954年12月3日)。
④ 安政元年11月4日(1854年12月23日)安政東海地震が起きて、下田に碇泊し川路らと交渉中、ディアナ号は大波に襲われ大きな被害を受けました。翌日には安政南海地震が、3日後には豊予海峡地震が連動し、一連の地震は南海トラフ地震だったと考えられます。
2024年8月8日に起きた日向灘灘地震は、あわや南海トラフの始まりかと懸念され、一週間の厳重警戒期間が設けられたのは記憶に新しい事です。安政元年の南海トラフ地震は日本各地に大被害を出しました。
⑤ ディアナ号が沈没したので、プチャーチンは新しい帆船を造るため日本に協力を申出ました。日本が造船に選んだ戸田は、英仏艦隊に見つかりにくい無名の小港でした。クリミア戦争が起こっていたため選ばれた漁村でした。
ロシア南下策によるクリミア戦争といい、安政元年の南海トラフ地震といい、2024年とどことなく似たような気がするのは私だけかもしれません。
近代戰としてクリミア戦争は、日本にまで影響があったということです。勝海舟が公知にその図を贈呈し、近代戦のイメージをもたせたことは、意味がありました。
セバーストポリ要塞の戦いでは、英仏艦隊は要塞めがけ艦砲射撃したと言います。
佐是様、
文久年間の朝廷内の公家、攘夷派などの勢力変遷が理解できたように思います。
史伝などを読む時、しばしば目にする「甲子夜話」の松浦静山と明治天皇が血縁とは驚きました。「甲子夜話」にも興味がありますが、相当な大著らしいのでダイジェスト版でも探してみます。
「クリミア戦争→日米和親条約→プチャーチン来航→大地震→戸田での造船」編年での史実説明、理解しやすくもあり、またなぜか心躍る気がします。
これから公知を中心とする展開ですが、幕末維新の日本の動きだけでなく諸外国の動向を関連付けて考えることができそうです。