水野筑後守忠德と長行が初めて面談します。水野は、拙著『方略は胸中にあり』で書いた人物で、阿部正弘の股肱として幕府外交に縦横の力量を発揮した幕吏でした。岩瀬忠震の先達です。日米修好通商条約をワシントンで批准するため遣米使節団を送りだす傍ら、日本人の操艦する咸臨丸を同行させ、サンフランシスコまで行かせました。安政二年に長崎海軍伝習所を設立して五年間で、太平洋を横断して帰ってこられる人材が育ったことを内外に示した人物です。阿部によって抜擢され、安政の大獄では仲間が次々に罷免されるなか、最後まで残った人物でした。剛直な性格が災いしたか、春嶽に疎まれましたが、長行に挨拶にきて、のち、二人は、とんでもない計画を実行するに至ります。
阿部政権における有能な幕吏の多くは、井伊に排斥されてしまい、文久年間には、幕府に人材が払底してしまうのです。阿部の配下の最期の余光のような人物です。
先週、北薗様に生麦事件碑の写真をお送りいただき、また生麦事件参考館のことを御教授いただきました。私が今回、乗せたのはベアト撮影の生麦村の古写真です。朝日新聞社主催の展示会「甦る幕末⁻オランダに保存されていた800枚の写真から/1986」の図録から取りました。
ベアトの来日は1862年(文久二年)ですから生麦事件の年です。写真は、事件から遠くない時期に撮影されたと思われます。さほど広くもない街道を道幅一杯に広がって進んでくる大名行列に、馬ごと乗り入れる英人の感覚にはついていけません。
生麦事件のリチャードソンの遺体。脇腹の斬り口が見えるようです。
このような写真をよく撮ったものです。
佐是様、
水野筑後守忠德、鋭い人物のようです。長行と二人でどんな計画を行うのか楽しみになりました。
徳川幕府と朝廷の動きを承久の変に重ねて見るなど思いも及びませんでしたが、結果は違うにしろ似通った動きも多かったのではと感じました。
度々思うことですが、二百数十年の鎖国政策で幕府の経済官僚は、外貨との交換比率など為替感覚はほとんどなかったはずですし、経済政策には大変な苦労をさせられたことでしょう。
尊皇、佐幕、攘夷、公武合体、倒幕などの言葉が乱れ飛んで流れの掴みづらい幕末ですが、本節の終盤で水野が語った尊王攘夷派の捉え方は、なるほどと腑に落ちたように感じました。「あの頃は攘夷しかなかった」と語ったのは伊藤博文だったように記憶していますが、たしかに攘夷は時が経つにつれて単なるスローガンになってしまったように思います。
水野筑後守忠德の登場でがぜん盛り上がってきたように感じます、次回も期待しています。