将軍徳川家茂が4月23日、順動丸で大坂湾一帯の警備体制を視察。その途中、神戸に上陸し、この地に海軍所、造船所を創設することを決断しました。翌日、次のように発令されました(勝海舟全集9「海軍歴史Ⅱ」P376 講談社 昭48)。
文久三年癸亥四月二十四日
神戸海軍所創設用掛任命
勝 麟太郎
摂州神戸村海軍所、造艦所御取建て御用ならびに摂海防禦向御用、これを仰せ付けらる
翌日に辞令が出て、勝も嬉しかったでしょう。
翌年の文久4年(1864年)2月(2月20日元治に改元)には外周の土手を除いて竣工したと言います。神戸海軍操練所には観光丸が練習船として付帯されます。もともとオランダの造った木造外輪船でした。3檣スクーナー型のコルベットで、幕府に贈呈されたのが安政二年、長崎の海軍操練所の練習艦として使われました。勝にすれば長崎で、そして再び神戸で縁が重なりました。
観光丸は神戸軍艦操練所の練習船でした。
神戸軍艦操練所で訓練を受けた主な人を上げると、
伊東祐亨(薩摩)明治海軍で初代連合艦隊司令長官、黄海海戦の指揮をとる。
北添佶摩(土佐)池田屋で慙死
坂本龍馬(土佐)海軍塾塾頭。これを機に大活躍するのは言わずとしれたこと
陸奥宗光(紀州)明治で外務大臣。
望月亀弥太(土佐)池田屋で慙死
近藤長次郎(土佐)自死
勝の大きな遺産かもしれません。
佐是様、
神戸海軍操練所創設の価値の大きさが伝わってきます。幕藩体制のなかで日本海軍を目指すという勝の国家観は当時の人びとには理解し難かったかもしれませんが、坂本龍馬や陸奥宗光などが育ったということは大きな功績だと思います。
攘夷急進派、公武合体派が錯綜する中、春嶽、宗城、容堂などの帰国は無責任なように思えます。やはり、年若い将軍家茂では荷が重かったのでしょうか。
写真は鹿児島市池之上町の伊東祐亨元帥誕生地碑です。
説明板
『伊東祐亨元帥誕生地
「薩摩の海軍」の長老といわれた伊東祐亨は、この地で生まれました。
若いころ、島津久光に随行して、江戸からの帰路、生麦(現在の横浜市内)事件が起きました。このことが原因で、翌文久3(1863)年、薩英戦争となり、祐亨は祇園之洲砲台を守ったり、スイカ売り決死隊に参加したりしました。
その後、「海軍操練所」に入って勝海舟(咸臨丸の艦長、海軍の生みの親)に学んだり、「江川塾」で洋式砲術を学ぶなど、「海軍の伊東」としての腕をみがきました。
明治27(1894)年、日清戦争のとき、連合艦隊の司令長官として、大きな勝利をあげましたが、清国の提督丁汝昌の才能を惜しんで、助けようとした話や丁提督の柩を丁重に送った話は、全世界に伝えられ、最高の礼節として讃えられました。』