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執筆者の写真佐是 恒淳

『四本の歩跡』第二章十二節「冬の海にて」

 文久二年(1862)段階になると日本人の操艦能力は相当、高いものがありました。何といっても安政七年(万延元年、1860)一月から五月にかけて、井伊直弼の暗殺をはさんで、サンフランシスコを往復した実績がありました。ペリー来航(嘉永六年、1853)から七年足らずで、蒸気船を操船してアメリカ西海岸まで行って帰ってきたのですから、偉業と言えます。長崎の海軍伝習は安政二年から安政六年まで、安政四年には築地に軍艦操練所が設立され、懸命に海軍教育を行った成果でした。


 勝は長崎でオランダ人から操船技術を学び、文久二年後半には軍艦奉行並になっていました。長行を京都に送り届け、摂海防衛計画立案のための現地視察を補佐します。素晴らしい知性同士の邂逅になったことでしょう。幕末史のなかで勇気の湧く出会いの一つだと思います。

 幕府側は、文久三年あたりから、三条実美、姉小路公知ら攘夷急進派を江戸に実地視察に派遣してほしい、摂海防衛の現地視察に来てほしい、と何回も願い出ます。本当の狙いは、現場を見せる以上に、鉄製蒸気船に乗せて、外国の力を体験させ、攘夷ができないことだと知ってほしかったのだと思います。そもそもの発想が、長行、勝の話し合いから生まれたという想定で書いてみました。

 攘夷という政策は、どう見ても間違っている。そうと天皇はじめ朝廷にわかってもらうために、上奏したくともその機会がない。朝廷内に開国を支持する公卿を作らなければならない。そんな道のりを辿るために、あれほどの大混乱を招いたのでした。天皇の誤解は大変なことを引き起こし、その遠因となったのは、水戸の老公、徳川斉昭の京都手入れだったわけです。そうやって原因を遡っていくと、ほんのつまらない感情の行き違いだったり、重要人物の早世だったり、あとから考えれば、小さなことの積み重ねの様に思います。小さなことから、大事件が誘発されるのが、動乱期の歴史というものなのでしょう。


『幕末軍艦咸臨丸』文倉平次郎 昭和十三年 名著刊行會より

閲覧数:6回2件のコメント

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2 Comments


北薗 洋藏
北薗 洋藏
Apr 14

佐是様、


情報網の発達していない時代、強大な軍事技術などを持つ外圧の実態を朝廷側に理解してもらいたい長行の焦りが伝わってきます。

幕府海軍ではなく日本海軍を目指す勝海舟の考え方は、この時点ではごく少数派だったのではないでしょうか。やはり徳川将軍の家を中心とする幕府はこの辺りが限界だったような気がします。

この時点で長州側もすべての人間が外国の実態を知らなかったわけはないような気がしてきました。外圧の実態を知っている長州の黒幕的人物が倒幕の意思を隠し、朝廷や志士を煽って攘夷に利用したのではと考えたりします。レベルの低い妄想だと思いますが。

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佐是 恒淳
佐是 恒淳
Apr 14
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北薗様、

 日本海軍を目指す勝海舟の考えは、少数派だったと思います。各藩とも、自藩を越えて日本の単位で祖国を意識できていない時でした。サンフランシスコまで行った勝や福沢、ワシントンまでいった小栗忠順ら幕府使節の面々など亜米利加の土を踏んだ者が、日本という概念に辿りついたのだと思います。藩の集合体の日本ではなく、世界にぽつんとある日本国という視点が、日本の概念に到達しやすかったのではないでしょうか。


 小栗忠順が横須賀に製鉄所/造船所を作ったとき、言った言葉があります(『明治という国家』司馬遼太郎)。


    あのドックが出来上った上は、たとえ幕府が亡んでも、”土蔵付売り家”という名     誉をのこすでしょう


 小栗は、幕府の滅亡を間違いないと思っていました。その上で、幕府が”土蔵”という遺産を、後の日本に残してやれれば、徳川の家の誉だと言ったのです。幕府や薩長という視野を越えて、間違いなく日本というものを見据えた者の述懐だと思うのです。ここまで、日本の概念に到達していた人物は、小栗忠順や勝ら、少ないながら、幕府の中にこそ確かにいました。


 長州にも外国を体験した人はいました。高杉晋作は、幕府使節随行員として上海に渡り、二か月間(文久二年五月~七月)の滞在で、植民地にされつつあったシナ人のみじめさに衝撃を受けます(『高杉晋作』中公新書 奈良本辰也)。


    ここでは、シナ人はほとんど外国人の使用人になってしまっている。英人や仏人     が歩いてゆくと、シナ人はみなこそこそ道をよけてゆくのだ。


 高杉はこの後、蒸気船を買おうと奮闘し、果たせずに終わりました。高杉なりの外国滞在の結果、視野が広がったものでしたが、日本という視野にまで至っているとは思えません。日本という視野に立てば、文久二年十二月十二日(容保が京都に向けて出発する直前)、品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちをやってのけるはずはありません。ただ幕府憎し、長州の攘夷の実績を作ろうという行動だと思います。

 関ケ原以来、長州藩全体に倒幕の気持ちが受け継がれ、二百五十年の封印を解いて、この時期に現れたということかもしれません。德川だって謀略を重ね、豊臣を根絶やしに滅ぼしたのですから、政権を奪取するとは、こういうことでしょう。なまじ日本という視点を持っていないほうが、武力行使による政権奪取の道に迷いがないかもしれません。

                        恒淳


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