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執筆者の写真佐是 恒淳

『四本の歩跡』第二章十三節「十万ポンドの斬撃」


 神戸造船所構内には、江戸末期の1864年(元治元年)に建設された「和田岬砲台」が現存しています。 当時、外国艦船の来航に伴い、沿岸を防備する必要に迫られ、徳川幕府により和田岬・川崎(湊川)・西宮・今津の各所に同型の砲台が建設されました。設計は勝海舟。完成には、約1年半の月日と2万5千両の費用を要しました。


湊川・今津の砲台はすでに取り壊され、西宮の砲台も内部が焼失し、石郭のみとなり、現在、和田岬砲台のみが当時のままの面影を残しており、 1921年(大正10年)3月3日には兵庫県下における史跡第1号に指定されています。(三菱重工 | 和田岬砲台 (mhi.com) より)





 勝海舟全集(講談社 昭49)第12巻(陸軍歴史Ⅱ P420)に「第十六条 和田岬石堡塔建築費額の伺、および略図」が載っています。


    文久三年癸亥春、我石堡塔取調の命を奉ず。乃ち意を門人佐藤与之助に授け、其図     面及雛型を製作せしむ。当時他に緊急の事務ありて東西に奔馳し、行李怱怱、其稿

    を留めず。因って嘉納氏所蔵の帳簿を借獲て、其中より僅に一、二を摭出し、一班

    を左に掲ぐ


とあります。小説に書いた通り、勝は忙しく、原稿を保存できず、後日、嘉納氏から借りたというのです。砲台の図は次の通りです。




 文久三年癸亥四月発業、元治元年甲子八月成功 とあり、石堡塔建設委員には、水野和泉守の次に小笠原図書頭の名が載っています。

 小説では「砲台を建設した」と短く書かれることでも、勝は門人の佐藤与之助に図を書かせ模型を作らせ、用意周到に取り組んで竣工させ、長い物語が潜んでいるとわかります。


                            




閲覧数:12回2件のコメント

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2 Comments


北薗 洋藏
北薗 洋藏
Apr 23

佐是様、


生麦事件の波紋の大きさを感じました。

薩摩は英国人の大名行列に対する無礼という対抗理由はあるものの、その後は事件解決への動きは見えず、ましてや、英国、攘夷急進派は事件を自らの政略に利用しているように見えます。

幕府側は事件の実際の当事者ではないにもかかわらず、その賠償金を含む交渉での苦しい思いが伝わってきます。英国との交渉をどのように長行が進めていくのか、また勝の動きも含め、次回以降期待します。


尊皇攘夷を旗印に幕府を苦しめる急進派と、神国日本などを標榜し、暴力で政党政治を追い詰め英米に挑んでいく日本陸軍などの軍国主義者が重なって見えてしまいました。

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佐是 恒淳
佐是 恒淳
Apr 27
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北薗様、

返信遅くなって失礼しました。


尊皇攘夷を叫んで幕府を追い詰め倒幕を達成した幕末の革命手法が、”昭和維新”を叫んで政党政治を倒し軍部の暴走につながった昭和前期の歴史に重なるところがあると、私も時として思います。天誅と政治テロはいずれの場合にも重要な要素になりました。


時の政府が呑めない条件を突きつけ、その条件を反論できない根拠と結び付けられれば、強力な政府打倒ロジックができ上るという図式になると思います。

攘夷は幕府の呑めない条件です。英人を一人斬殺しただけでこれだけの賠償金を払わなければならないのですから、強硬な攘夷をやれば大変なことになると攘夷急進派でさえわかっている筈です。この乱暴な策を天皇という反論できない権威、根拠と結びつけたのが、倒幕理論であり、見事に成功したと思うのです。


こうした例は例えば、犬養毅もやったことがあります。

ワシントン条約で軍艦建造数を英米より低く設定することにしたいとの政府を、野党の立場から、統帥権干犯だと批判したのです。軍備(この場合、軍艦の数量)を決めるのは統帥権の範疇にあり、天皇だけが裁可できるはずのものであるにも関わらず、政府が口をだすのは天皇専権の行為を蔑ろにするものである、と政府攻撃をやったのです。これなども天皇の権威を裏付けに政府を攻撃するロジックです。統帥権干犯という概念はこの後、日本の政治に毒の様に回ってしまいます。


昭和軍人(特に皇道派)は2.26事件で何を目指したか、結局は、軍部が経済界を指導できる統制経済体制だったのかもしれません。近衛政権でも統制経済への傾斜は認められますが、皇道派のように軍部の指導する統制経済ではありません。軍部指導の統制経済を天皇の権威と結びつけられず、昭和維新は失敗します。2月26日の閣僚暗殺を天皇はお許しにならず、反逆とされたのでした。


これは昭和維新の歌(昭和5年)の一節です

   権門上に傲れども 

   国を憂うる誠なし

   財閥富を誇れども

   社稷を思う心なし


   昭和維新の春の空

   正義に結ぶ丈夫が

   胸裡百万兵足りて

   散るや万朶の桜花


   古びし死骸乗り越えて

   雲漂揺の身は一つ

   国を憂いて立つからは

   丈夫のうたなからめや


長州系の攘夷志士が眦を決し天誅を叫ぶ心意気と通じるものがあります。

明治維新という言葉は、昭和維新という言葉ができてから造語されたと読んだことがあります。それ以前は、明治維新のことを「御一新」と呼んでいたのです。「維新」とは、こういう一派のイデオロギーにまみれた言葉だったのかもしれません。今ではイデオロギーをまとわない歴史用語に収まっていますが……。


もうすぐ始まる第三章では、三条実美の視点で文久年間が語られます。志士の心情、倒幕イデオロギーを扱うことになります。


                        恒淳

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