神戸造船所構内には、江戸末期の1864年(元治元年)に建設された「和田岬砲台」が現存しています。 当時、外国艦船の来航に伴い、沿岸を防備する必要に迫られ、徳川幕府により和田岬・川崎(湊川)・西宮・今津の各所に同型の砲台が建設されました。設計は勝海舟。完成には、約1年半の月日と2万5千両の費用を要しました。
湊川・今津の砲台はすでに取り壊され、西宮の砲台も内部が焼失し、石郭のみとなり、現在、和田岬砲台のみが当時のままの面影を残しており、 1921年(大正10年)3月3日には兵庫県下における史跡第1号に指定されています。(三菱重工 | 和田岬砲台 (mhi.com) より)
勝海舟全集(講談社 昭49)第12巻(陸軍歴史Ⅱ P420)に「第十六条 和田岬石堡塔建築費額の伺、および略図」が載っています。
文久三年癸亥春、我石堡塔取調の命を奉ず。乃ち意を門人佐藤与之助に授け、其図 面及雛型を製作せしむ。当時他に緊急の事務ありて東西に奔馳し、行李怱怱、其稿
を留めず。因って嘉納氏所蔵の帳簿を借獲て、其中より僅に一、二を摭出し、一班
を左に掲ぐ
とあります。小説に書いた通り、勝は忙しく、原稿を保存できず、後日、嘉納氏から借りたというのです。砲台の図は次の通りです。
文久三年癸亥四月発業、元治元年甲子八月成功 とあり、石堡塔建設委員には、水野和泉守の次に小笠原図書頭の名が載っています。
小説では「砲台を建設した」と短く書かれることでも、勝は門人の佐藤与之助に図を書かせ模型を作らせ、用意周到に取り組んで竣工させ、長い物語が潜んでいるとわかります。
佐是様、
生麦事件の波紋の大きさを感じました。
薩摩は英国人の大名行列に対する無礼という対抗理由はあるものの、その後は事件解決への動きは見えず、ましてや、英国、攘夷急進派は事件を自らの政略に利用しているように見えます。
幕府側は事件の実際の当事者ではないにもかかわらず、その賠償金を含む交渉での苦しい思いが伝わってきます。英国との交渉をどのように長行が進めていくのか、また勝の動きも含め、次回以降期待します。
尊皇攘夷を旗印に幕府を苦しめる急進派と、神国日本などを標榜し、暴力で政党政治を追い詰め英米に挑んでいく日本陸軍などの軍国主義者が重なって見えてしまいました。