top of page
執筆者の写真佐是 恒淳

『四本の歩跡』第二章十一節「足元に響く音」

 勝海舟の日記(勝海舟全集1「幕末日記」P65~)を見ると、英国の鉄船の御買上の経緯がわかります。

 勝は、文久2年7月4日、二の丸留守居格軍艦操練所頭取となり、閏8月17日、軍艦奉行並に異動しました。役高1,000石。下記の記事は、勝が軍艦奉行並の時期のものです。


文久二年9/9:(勝が)登城すると、御用部屋で春嶽、板倉、水野に蟠龍丸の修理が終わる時期を問われた。11月頃になると答えると、もっと早くならないものか、10月頃に使いたいとのこと。神奈川に買船があると聞こえるが、(勝の)考えはどうかと問われた。


 蟠龍丸とは、安政五年七月、日英修好通商条約締結の記念としてイギリスから贈呈された木造スクーナー型蒸気船で、女王の遊船でした。そのため、快足を誇り、内装が豪華絢爛、人目を驚かす設えでした(拙著「方略は胸中にあり」P252)。蟠龍丸の修理が間に合わないので、新しく買うことになったのが順動丸でした。10月ころ、慶喜が上京することになれば、海路いくことを考えていました。この頃、勘定奉行だった小栗忠順の案だと思います。陸路行けば、途中、攘夷の者に襲われる心配があり、自ずと警衛の人数が増え、金もかかる。海路なら、そうした懸念が一気に解決するだけでなく、幕府のステータスも上がると考えたようです。


 文久二年9/10:(勝は)雨中、馬で神奈川に行く。翌9/11に戸部に至り神奈川奉行竹本正雅と会談、即刻、横浜會局に行って英商の鉄船二隻を見る。一隻は「新造頗る佳也」とあります。勝は後の順動丸を大層気に入ったようです。


文久二年10/13:(勝は)鉄船を受領に神奈川に行く。「価15万ドルラル也」でした。

 

                      順動丸 河鍋暁斎画 早稲田大学図書館藏


 勝ら、当初の幕府操艦技術者が慣れ親しんだのは、咸臨丸のような木造蒸気船でしたが、文久年間、1860年代になると鉄製蒸気船が主流になりました。順動丸は商船で大砲二門の小規模武装しかありませんでしたが、機関は強力で速度の速い一級の船だったようです。文久三年、勝は、この船で何度も幕府要人を載せて江戸と大坂を行き来します。すでに移動の手段が変わりつつありました。一度でも乗れば、西洋の力を実感でき、攘夷の言うは易く、行うは難いことがわかると、長行も勝も思っていました。議論で攘夷不可と攘夷論者に説得できなくとも、順動丸に乗せて実体験さえ与えれば、攘夷不可を納得するのではないか、と考え、勝と長行は、その道筋を探り始めます。順動丸は、攘夷不可の教科書の役割も担ったと言えるかもしれません。


                   

閲覧数:18回2件のコメント

最新記事

すべて表示

2 komentarze


北薗 洋藏
北薗 洋藏
06 kwi

佐是様、


京都公家衆、できることなら孝明天皇を鉄製蒸気船に乗船させることができれば攘夷の困難なことは一目瞭然、幕末維新の流れも全く違ったものになったのでしょう。姉小路公知への働き掛けも気になりますが、勝海舟も登場、春嶽、容堂、慶喜、水野忠徳等と絡んでの長行の動きが楽しみです。

長崎海軍伝習所の練習航海での薩摩寄港の際、島津斉彬は松木弘安などとカッテンデイケに面会のため鶴丸城より南へ50㎞余りの山川港まで行ったと記憶しています。薩摩半島南端に近い閑静な港も歴史の舞台だったことを思えば、違った風景に見えてしまいます。

Polub
佐是 恒淳
佐是 恒淳
07 kwi
Odpowiada osobie:

北薗様、

斉彬公は山川港に咸臨丸を訪ね、鹿児島にくるよう招待しました。それを受けて、咸臨丸は鹿児島に向かい、島津家別邸で手厚い歓待をうけたそうです。斉彬公と勝、カッテンデイケの邂逅はどのようなものだったか、想像するだけでもわくわくします。

そういう開かれた世界と、大の異国嫌いの集団が入り混じって、混乱の元となっていたのが幕末という時代だったのでしょう。これから勝は順動丸を使って公家衆を教育する(船に乗せる)手立てを考えていきます。

                          恒淳


Polub
bottom of page