長行が世に出るには、いろいろの人の隠れた世話があったようです。そうでもなければ、廃人とされた人物が老中にまでなれるはずはないでしょう。
その人たちが、長行と親交した儒学者たち、そして藩主の山内豊信と蜂須賀斉裕だというわけです。その口頭試問(?)もかなり強烈なものだったということです。当時の人物を見る観点は、度胸、心胆、堂々たる心術、振舞などで、精神性に通ずる点を重んじました。幕臣や家臣を統べるということは、そうした素養が大切だったのでしょう。幕閣に向いているか否かは、こまごまとした実務能力などあればあるで悪くはないが、リーダーには別の資質があるという考え方だったようです。長行は、驚くべき口頭試問に遭い、驚くべき資質を示しました。
會津御薬院 楽壽亭
合江園は失われてしまいましたので、著名な大名庭園の遺構にその面影を求めるしかありません。背山亭は、母屋から遠く離れ、こんな感じで池畔に建っていたかと思い、写真に取り上げました。
恒淳
佐是様、
いよいよ、日米修好通商条約の勅許に絡み混迷が深まっていく時期のようです。
それにしても、型破りな口頭試問に長行も内心驚いたことでしょう。日陰の身ながらも文武の修行に長い日々を送ったからこそ平常心を保てたのだと思います。「忍堂」⇒「容堂」の由来は初めて知りました。山内容堂の人を食ったような“酔って候”的行動はあまり褒められたものではないように感じますが、外見とは違い大藩を預かる大名としての自覚や人を見る眼を備えた開明的な人物だったのではと想像しています。