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執筆者の写真佐是 恒淳

『四本の歩跡』第二章五節「目利きの一喝」

 長行が世に出るには、いろいろの人の隠れた世話があったようです。そうでもなければ、廃人とされた人物が老中にまでなれるはずはないでしょう。

 その人たちが、長行と親交した儒学者たち、そして藩主の山内豊信と蜂須賀斉裕だというわけです。その口頭試問(?)もかなり強烈なものだったということです。当時の人物を見る観点は、度胸、心胆、堂々たる心術、振舞などで、精神性に通ずる点を重んじました。幕臣や家臣を統べるということは、そうした素養が大切だったのでしょう。幕閣に向いているか否かは、こまごまとした実務能力などあればあるで悪くはないが、リーダーには別の資質があるという考え方だったようです。長行は、驚くべき口頭試問に遭い、驚くべき資質を示しました。






會津御薬院 楽壽亭

合江園は失われてしまいましたので、著名な大名庭園の遺構にその面影を求めるしかありません。背山亭は、母屋から遠く離れ、こんな感じで池畔に建っていたかと思い、写真に取り上げました。

                          恒淳

閲覧数:18回2件のコメント

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2 comentários


北薗 洋藏
北薗 洋藏
25 de fev.

佐是様、


いよいよ、日米修好通商条約の勅許に絡み混迷が深まっていく時期のようです。

それにしても、型破りな口頭試問に長行も内心驚いたことでしょう。日陰の身ながらも文武の修行に長い日々を送ったからこそ平常心を保てたのだと思います。「忍堂」⇒「容堂」の由来は初めて知りました。山内容堂の人を食ったような“酔って候”的行動はあまり褒められたものではないように感じますが、外見とは違い大藩を預かる大名としての自覚や人を見る眼を備えた開明的な人物だったのではと想像しています。

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佐是 恒淳
佐是 恒淳
26 de fev.
Respondendo a

北薗様、

コメントありがとうございます。

容堂は、幕末の大名の中で破天荒な振舞で勇名を馳せた一人です。かなり大変な人で、豪儀というか、人を人とも思わないというか、好きに振る舞う型破りな性格の大名でした。おっしゃる通り「酔って候」的な逸話は小説でもこのあともいくつかご紹介します。


容堂はあくまで公武合体開国派で、武市半平太ら土佐勤王党に大鉄槌を下したことで有名です。政治的な立場を貫き、佐幕的な義理を通しました。慶応三年12月9日の小御所会議の席で、徳川慶喜が大政奉還によって大きな功績があるのに、この席に呼ばないのは陰険ではないかと、公卿を責めて、最後に「幼冲の天子を擁して権柄を窃取せんとする意があるのではないか」とやったところ、岩倉から「幼冲の天子」とは無礼ではないかと、上げ足を取られた逸話も有名です。十七歳の明治天皇を玉とし掌中に収めた薩長勤王方に含むところがあったのです。結局、容堂の意に反して、土佐藩士団は新政府方につき板垣退助らが活躍することになります。容堂は、東洋的な大きな器の大人物だったようです。


          恒淳


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