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執筆者の写真佐是 恒淳

『四本の歩跡』第二章二節「数奇なり」


 小笠原家と水野家は親類でした。長行の父長昌の正室連は、水野忠光のむすめで水野忠邦と兄弟です。長行の嫡母に当たり、その意味で水野忠邦の息子忠精は長行と従兄弟(義理)です。のちに忠精は老中となり、長行を抜擢し老中格に任命します。


 水野忠邦が老中になりたい志望(野望?)のために、唐津から転藩を望み、それが叶えられ浜松に移ります。文化十四年(一八一七)九月、忠邦二十四歳、奏者番に加え寺社奉行兼務を命ぜられて五日目のこと、幕府に国替えを申請した甲斐あって、忠邦に遠江浜松六万石に転封の沙汰がありました。

 忠邦はこの話を家中の老臣に黙って運んできたため、転封の件が漏れ聞こえた頃には、藩中、大騒ぎとなりました。浜松もよい藩領だが、公称六万石、実収は十万石にすぎません。殿は何故、このようなことをなされるのかと、敢えて損になる転封を諫める声が高く上がったといいます。

 忠邦は眼居深く壺目で老臣を睨みつけながら、自らの脂ぎった権勢欲を幕府への清々しい忠節論にすり替えて老臣らの損得論を一喝しました。曰く、

「六万石の大名が六万石を賜るのに何の不足を言い立てるか、水野家は東照宮の御母堂、伝通院様の御実家、御外戚の家筋に連なり、御譜代の席にあって、ひとたびは御加判の列(老中)に連なって天下の政(まつりごと)を掌(つかさど)ることこそ忠義というもの」

「そのために願い上げた国替えに、諫めると称し、異を唱えるは己の欲得から出た不満にすぎぬではないか」

 論鋒鋭く老臣を責め立てました。容赦ない論の鋭さは若いころからこの人物の特徴でした。忠邦にしてみれば、これで老中への道を拓くことができるのです。石高の僅かばかりの多寡など知れたことだったのでしょう。転封に際して、忠義立てに唐津藩領のなかから一万六千九百二十五石を幕府に上納し、惜しげもなくさっさと浜松へ移っていきました。あとの者(小笠原藩)の迷惑など一切知らずというのは、後の天保の改革でも見られる忠邦のやりざまでした。唐津とは、水野家、小笠原家の因縁が絡まる城地でもありました。



領布振山から唐津灣を望む。左手松浦川河口の対岸に唐津城が立つ。右手の緑地帯は虹の松原。灣一杯に軍船が集結し、狭手彦の軍令のもとに出航を待っていた景色が髣髴とします。このあたりは、古代に朝鮮への出撃港でしたし、近世では名護屋城が朝鮮征伐の出撃港でした。地政学的な意味は千年経っても変わらなかったことを意味します。呼子の烏賊は絶品でした。








閲覧数:13回2件のコメント

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2件のコメント


北薗 洋藏
北薗 洋藏
2月04日

佐是様、


小笠原家の望まない転封や長行の不運な生い立ち、この時点までは悲惨としか言いようがありません。長行を戴いてのお家騒動が起きても不思議ではないように感じました。小笠原家のみでなく、家督相続に絡み不幸な人生を送った人も多かったのではないでしょうか。

古代の伝説、小笠原流弓術、茶道なども散りばめられ、興味が湧きます。領布振山の佐用姫伝説は初めて知りました。

水野忠邦の権力欲がいまのところ小笠原家には幸運をもたらしたようですが、今後どのように展開していくのか楽しみです。

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佐是 恒淳
佐是 恒淳
2月05日
返信先

北薗様、

長行は、不遇な青春時代をはね返そうと、学問、武術に励みました。それがよかったのでしょう、不遇を経験したからこそ、人の心がよくわかり、人柄が練れた人物になりました。次第に江戸の武家、幕府の要路に知られ、それは辛い政治家の道へとつながっていきます。厳しい局面に当たるたび、若い頃の修練がきらりと光る人物になります。

長行は、私の好きな人物です。今後の展開を楽しみになさってくださるとのこと、これほどの励みはありません。

                   恒淳

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