米から開国の圧力がたかまり、開国を拒否し続けられない状況になったのが嘉永六年(1853)のペリー来航です。翌年の日米修好通商条約の締結の段になって、帝から強い反対があって勅許が下りず、幕府は無勅許で締結しました。
ここから朝幕関係は極端に悪化し、政治的な大混乱が起きて井伊大老が暗殺されるまでの大事件になりました。天皇に開国しか日本に道はないと説明し、納得いただこうと多くの人が考えました。そこに幕府を倒し取って代ろうとする政治集団が、天皇に世界情勢を御理解いただく機会を潰し、倒幕の意図を隠しながら、表立っては開国を不可とする動き(攘夷)になります。
天皇に開国拒否のお考えを改めていただこうという考えは、一橋慶喜をはじめ幕府側は皆が持ちましたし、長州の長井雅楽(第三章に登場)も持ちました。それがみな、攘夷派公卿や長州志士の土佐勤王党の画策で潰され、結局、天皇が異国を嫌っているから、開国はだめ、すなわち非開国=攘夷という図式が主流になるのが文久二年あたりからです。その背景には、攘夷で幕府を苦境に陥らせ倒幕に持っていこうという考えがありました。
攘夷、非開国との構想は、明治になり新政府が樹立すると、あっと云う間に捨て去られます。かつての長州の攘夷志士はすでに明治政府高官になっていましたが、郷土の昔の攘夷仲間から、なぜ開国なのじゃ、攘夷ではなかったのか、と問い詰められ、幕末の頃は攘夷でなければならなかったのじゃ、と苦しい言い訳をしたという逸話が残っています。つまり、攘夷は倒幕のスローガンでしかなかったのです。天皇をミスリードし誤った國策に導く手法は幕末に大いに有効でした。昭和初期にもこの手法が使われた節があります。
若き日の小笠原長行 小笠原記念館藏
佐是様、
井伊政権関連の幕僚への追罰は、長行の本心ではなく政略上止むを得ず実行したように感じました。横井小楠、春嶽の論はやはり無理があるように思えます。慶喜の論が正当のように思えますが、腰砕けの様子がその後の行動を暗示させるように思いました。命を賭す覚悟についての水野・井伊、慶喜などの対比はその通りだと思います。長州は長井雅楽のような進歩的な人物がいたにもかかわらず、その後は倒幕志向の急進派が攘夷思想を政略に利用し広めたのではないでしょうか。孝明天皇の異国嫌いも長州の急進派の影響が大きかったように思っています。
多くの人に影響をおよぼしたといわれる横井小楠、ほとんど知識がありませんので何か読んでみようかと思っています。