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執筆者の写真佐是 恒淳

『四本の歩跡』第二章三節「具眼の士たち」

 長行は江戸で学問に励み、多くの儒者と親交を深めました。長行は、偉ぶらない気さくな人柄で多くの学者に好かれました。数奇な運命を受入れるために積んだ精神の鍛練によって立派な人柄が陶冶されたのだと思います。長行を応援するたくさんの学者がいて、大名屋敷で講義する折に長行を褒め、その名が次第に知られるようになりました。私には、天が長行を日本に与えようとしたのかもしれないと思えます。

 江戸時代、儒学者のネットワークはよほど広範で影響力があったと思います。昌平坂学問所はその中心的な施設でもありました。會津藩の秋月然りです。名立たる儒学者ともなれば、大名から出講を依頼され、藩の政治顧問の役割を引き受けました。儒学者を通した大名間の付き合いや、幕政に及ぼした影響力は相当のものがあったと思います。長行は、意図せず、このネットワークに乗せられたからこそ、老中への道につながりました。数奇な運命で、悪いほうに動いていたこれまでの長行の境遇が、ネットワークに乗ることによって、好い方向に回転が変わったようでした。幕政に関わっても、長行の数奇な運命は続き、驚くような展開になっていきます。幕末史の偉観の一つです。

 長行を描いたなかで、いい本だと思ったのは『花と奔流』子母澤寛(全集13、講談社)でした。小説ではなく、評伝風の随筆ですが、人となりがよく伝わります。




湯島聖堂大成殿 昌平坂学問所

寛政異学の禁により朱子学が奨励され、その一環として、聖堂を林家の私的な家塾だったものを、1797年(寛政9年)に幕府の直轄機関「昌平坂学問所」(昌平黌)とした。江戸時代の学問、儒学を支えた施設。



閲覧数:8回2件のコメント

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2 Comments


北薗 洋藏
北薗 洋藏
Feb 11

佐是様、楽しく読ませていただいております。


安政の大獄などで急進攘夷派に火が付かなければ、開明派の諸大名や儒学者ネットワークの動きで、家格に縛られた幕府政治体制も実力主義に変化していき、平穏理に開国へ向かった可能性もあったのではと考えてしまいました。そう単純なものでもないのでしょうが、内戦を伴った明治維新、戦争などない方が良いに決まっています。

長行に運が向いてきたようです、次回以降に期待します。


写真は、宮崎県総合文化公園にある安井息軒像です。




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佐是 恒淳
佐是 恒淳
Feb 11
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北薗様、

 安井息軒の写真をありがとうございます。豪快で人情味あふれる大儒だと思います。小説では、このあと、何回か登場します。多くの大名の内情、藩主の考えなどに広い情報を持っていたようです。

 儒学者は気骨があれば、当然、攘夷急進派に反論もするし、志士の嫌う正論を唱えもしました。文久二年後半から激しい天誅(志士によるテロ)が行われ、天誅の犠牲になった儒者も多くいますが、息軒は無事、天命を全うしました。


 尊王攘夷急進派に火がつかなければ…と私もいろいろ想像をたくましゅう致します。ご指摘のように、内乱は起きなかったかもしれません。幕府は阿部正弘の頃から内乱勃発を恐れ、なんとしても内乱だけは防がなければならないと決めていたようです。井伊にはその感覚が乏しかったのでしょう、あれほどの大獄を起こし、内乱の種をまいてしまいました。

 その後、阿部の感覚に戻り、しばしば幕府に見られる弱腰の態度も、内乱だけは起こしたくないとの決意によるものだとすれば、何か、健気で、涙が誘われる気がします。因循姑息とばかり幕府を責めるのも酷な気がします。

 尊王攘夷急進派に火が付かなければ、という「たられば」話はどれも断言できるものではありません。ただ一つ、間違いなく言えるのは、薩長閥を中心とした明治政府はできなかったということです。明治政府は、内乱を引き起こして銃口から生まれました。明治政府ではない、別の新しい政体は、と考えると、それはそれで日本人らしい立派な政府になった気がしますが、これは全くの「たられば話」です。


                            恒淳

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