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執筆者の写真佐是 恒淳

『四本の歩跡』第二章一節「未来に射る矢」

 幕末に活躍した老中小笠原長行の章が始まります。

 容保は、不思議な縁に導かれ悲劇的な道を歩みますが、長行という人は数奇な運命を歩むという点で格段です。これ以上ないほどの不思議な縁で幕末の重責を担いました。


小笠原流の武芸を身につけ、騎射、弓射では大名随一の名人と謳われました。学問もあり、能書で有名なひとでした。奇縁によって老中にならなければ、学者として十分に立っていける人でした。明治海軍の小笠原長生(ながなり、中将、鈴木貫太郎と同期)はその息子です。



虚空に香一炷の立ち昇る気韻をもって斜め頭上に静かに構え、弓の打起こしをとった。肩の線、腰の構え、両足の開きはまさに地に平行、的を見通す視線は鋭く定まり、静中動の姿勢が澄を求めて凛々しい気配が辺りを払った。



 この節に出てくる日本左衛門は実在の人ですが、青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)という歌舞伎では日本駄右衛門として演劇化されました。その自己紹介の名調子は次のようです(稲瀬川勢揃の場)。


*************


問われて名乗るもおこがましいが 

生まれは遠州浜松在(えんしゅうはままつざい)

十四の時に親に離れ 

身の生業(なりわい)も白波の 

沖を越えたる夜働き 

盗みはすれど非道はせず 

人に情けを掛川から 

金谷をかけて宿々で 

義賊と噂高札(うわさたかふだ)の 

廻る配布の盥(たらい)越し 

危ねえその身の境涯も 

最早四十に人間の 

定めはわずか五十年 

六十余州に隠れのねえ 

賊徒の張本(ちょうぼん) 

日本駄右衛門(にっぽんだえもん)


 文久2年(1862年)3月、江戸市村座で初演された歌舞伎の演目。通称は「白浪五人男」(しらなみ ごにんおとこ)。二代目河竹新七(黙阿弥)作、全三幕九場です。

 初演が文久二年というのが面白い。まさに小説の時代そのものです。














閲覧数:13回2件のコメント

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2 Comments


北薗 洋藏
北薗 洋藏
Jan 28

佐是様、新展開に期待しています。


名前だけうろ覚えの人物が何人か登場しました。小笠原長行は長州征討で戦った大名、日本左衛門も大盗賊くらいの記憶しかありません。徳山五兵衛も日本左衛門がらみで時代小説でよんだような気がします。盗賊一味の悪事で転封に遭ってしまった大名は腹に据えかねたことでしょう。小笠原家の辿った会津絡みの歴史を踏まえて読んでいこうと思います。


写真は7年程前、島津家別邸仙厳園で行われた小笠原流流鏑馬の様子です。




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佐是 恒淳
佐是 恒淳
Jan 29
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北薗様、

所用が手間取り、お礼の返信すっかり遅くなってしまいました。

毎回のコメント、ありがとうございます。


小笠原長行は幕末の人物として、やや知名度が低いかもしれませんが、人物の面白さ、能力、歴史上なした事柄は、第一級の人物だと思います。幕末の幕府側の人物は、薩長、土佐側の人物に比べ、知名度が低いのは、敗者側のこと故、止むを得ないかと思います。


この人物を追いながら、文久に至る激動を幕府側の視点で見て行こうと思います。宜しくお付き合い賜りますようお願いします。


薩摩の弓術と言えば日置流かとばかり思っていましたが、小笠原流も盛んなのですね。仙厳園で騎射(流鏑馬)を御覧になられた時の写真と拝察しました。私は未だ見る機会に恵まれず、北薗様が少し羨ましく思いました。


                              恒淳

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