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執筆者の写真佐是 恒淳

『四本の歩跡』第三章四節「雨夜に斬る」

 万延二年2月1日(2/19文久に改元、1861)申の刻(午後4時頃)、露軍艦ポサドニック(艦長ビリレフ、乗員360人、砲20門、二千噸超、艦長64 m)が、占領を意図して対馬の浅茅湾尾崎浦に来航、船体修理を口実に碇泊許可を対馬藩に要請、付近を測量。

 ポサドニック号事件の始まりです。


 前年、清に北京条約を押付けた英仏が対馬を基地にすることを協議しました。前年ウラジオストック港を建設し始めた露がそれに感ずき、先制的に対馬を占領したというわけです。万延二年正月、長崎にきた箱館駐在露領事ゴシケヴィッチと北支那・日本海巡察のため上海から長崎に来た露海軍大佐リカチョフとの間で対馬占領が打ち合わされ、リカチョフからポサドニック艦長ビリレフに命令された侵略行動でした。英仏と露の間で、対馬の取り合いになりそうでした。


 3月2日、ポサドニックは芋崎浦に投錨。4日正午に上県郡鮒村玉崎(北の島)に繋留。その後、下県郡の昼ヶ浦芋崎の古里浦に停泊。数十人が上陸し小屋掛けを始めました。対馬藩主の宗家の番船から抗議しましたが、ビリレフは無視。兵舎、哨戒所、将校集会所、病院、食堂、煉瓦窯、穀物倉、風呂、牛小屋、埠頭、道路、井戸、水道を構想し作業場、材木置き場を作り礎石にする大石、小石を集め始めました。ビリレフは古里浦に軍事基地を構築しようと企図していました。宗家では手に負えず、幕府に報告しました。


 文久元年5月7日、外国奉行の小栗忠順が目附溝口八十五郎らを率い対馬に到着しました。5月10日、初めて艦長ビリリョフと会見し、以後、数度の会見で露側がまともな理屈の通らぬ相手と見て会談を打ち切り江戸に帰ります。


 7月23日、イギリス東洋艦隊の軍艦2隻(エンカウンター、リンドーブ)が対馬に回航し示威行動を行い、艦隊司令官ホープ中将はロシア側に厳重抗議しました。英国は何も親切、正義感でポサドニックの追払いを図ったわけでなく、実際はこの時点で英国公使オールコックも、イギリスによる対馬占領を本国政府に提案していました。勝が、英国にポサドニック追出しを頼んだら、きっと応じると策を立てたということになっています。文久元年8月15日ポサドニック号は対馬から退去し、幕府の策が成功しました。その後、日本は、英国に取られることもなく対馬を守り通しました。火花の飛ぶような交渉が江戸で行われたに違いありません。


 武力を持たなければ、相手の無法を咎めることもできないと、幕府が思い知った事件でした。武力に裏打ちされない攘夷論がいかに無力で、国政を危機に陥れる危険な思想だと思ったことでしょう。


 8/15ポサドニックが対馬を退去。8月には土佐勤王が江戸で発足、9/2武市半平太が帰国のため江戸を出達。別離のしるしに墨竹を描いて久坂玄瑞に贈りました。10/20、和宮、京都を出達。久坂ら、和宮奪取計画失敗。日本中が激動の中に放り込まれたような時期が文久元年から始まります。



祇園白川の川沿いの風情。志士たちの鉄腸をとろかすような世界でした。


閲覧数:10回2件のコメント

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2 Comments


北薗 洋藏
北薗 洋藏
Jun 02

佐是様、


土佐の上士の郷士に対する差別が気になりますが、同様に薩摩でも城下士の郷士への差別が酷かったようです。

歴史小説では西郷、大久保などは薩摩の下級武士と紹介されることが多いようですが、彼らは城下士に属しているので、下級武士には当たらないと思っています。私は郷士の血筋なので、少々僻目気味なのかもしれません。城下士が中心となって起こした西南戦争では、差別の影響で心情的に薩軍に参加したくなかった郷士も多かったのではと思っています。

ポサドニック号事件など、幕末日本の裏側での英米仏露などの勢力争いも興味深いところです。

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佐是 恒淳
佐是 恒淳
Jun 02
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北薗さま、

 ご指摘のように武士団のなかにも上下関係があって、本当に日本は固定された身分社会でした。現在は、身分とは言いませんが、人々の間にそれなりの上下があります。しかし、その上下は固定されたものではなく、本人の努力と能力で、いかようにも上昇できるものだから、自由で固定化されていない非身分社会だと言えるのだと思います。現在は、貧困の連鎖も指摘され改善点はあるにせよ、よほど垣根の少ない社会であることは間違いありません。

 幕末に、倒幕に結集したエネルギーは、幕藩体制に向かいながら、深いところでは、固定的な身分制度にも向いていたのかもしれません。ただ、維新の功ある志士たちは、徳川時代の身分制度を壊しましたが、新しい身分制度(華族制、爵位など)を作りました。


 第四章では、薩摩藩の田中新兵衛が登場します。薩摩武士団の構成などに少し触れることになります。

                      恒淳

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