文久三年(1863)三月の段階から徳川幕府の権力構造を振り返って見ると、驚くような変化が見て取れます。
本来、家康が定めた徳川幕府の統治原理は、天皇から征夷大将軍の職を賜り政治全般の委任を受けて、政治権力を執行するというものでした。朝廷/天皇は国権執行の委託者、幕府/将軍は受託者として国権を執行すると法的な立場が決められていました(第一章七節「公武の根本」)。
その立場に立って、幕府は外国から侵略されるという危機感を背景に、米国と通商条約を結びたいと勅許を願いでたものの、勅許は得られませんでした。しかし、侵略される危機感は高まり、ゆっくり勅許を待ちたいのはやまやま、しかし、もう待つ時間的余裕がないと判断し、勅許のえられぬまま日米修好通商条約を締結しました(安政5年、1858)。
勅許をゆるさなかったにもかかわらず、条約締結を断行した幕府に対し、孝明天皇は面子をつぶされたと激怒します。大法に拠れば、完全に委任したのだから天皇が政事にあれこれ口を出すこと自体、そぐわないことでした。井伊政権の前、老中阿部正弘は国難に当たるには国内が一つにまとまる必要があると考え、朝廷に外交のことで意見があれば聞くという宥和的な立場を示したせいで天皇が口をだすようになったのかもしれません。徳川斉昭がいらぬことを朝廷に漏らし吹き込んだため、幕府への信頼が薄れたのかもしれません。
天皇がお許しにならなかったことを井伊が勝手にやって、心ある人を弾圧したとなって、国中が大騒ぎになり、ついには井伊が暗殺されます。幕府にとって、家康の作った大法が揺らぎ、尊皇思想に敗れました。自信を失った幕府は国政を担う権威を朝廷から借りるため和宮を嫁にもらい、天皇の権威をかりながら政治を取ろうとします。
この弱みを見逃さない倒幕派が、幕府を追い詰め、王政復古を宣言し、天皇を戴いた国を作ろうと画策していきます。朝廷は国権執行の委託者、幕府は受託者という原則から、そのうちに、「では朝廷は幕府に国権を委託しない」というところまで進んでいきます。家康の定めた大法に破れが存在し、想定外の外圧によって、破れが生じたということだと思います。
ここまでに持ってくるため、尊皇攘夷派が繰り広げたどす黒い謀略の数々は、冷静に振り返ると胸が悪くさえなります。私心なく天皇に忠誠を誓った志の許に行った行為は愛国の行為であり、罰せられるべきではないとの考えを広めました。松陰の思想、そうでなければ、松陰の思想に源を発する発展形の思想で、攘夷公家の支持もあって喧伝された考え方になりました。不条理であればあるほど、幕府を追い詰めるレトリックになって有効だというわけです。私心がないどころか、長州が幕府にとって代わろうという私心に満ちた動機でした。
2005年の中国における反日活動では「抗日有理、愛国無罪」というスローガンが掲げられました。反日行動(暴力を含む)には理が通っていて、愛国的(故郷、祖国ではなく中国共産党への愛)な行動は(たとえ暴力行為であっても)無罪である、という意味だと思います。韓国では「反日無罪」とのスローガンが用いられました。いずれも大衆を動員し中国共産党なり、北朝鮮の息のかかった韓国のグループなりに有利になるよう仕組まれた謀略だと思います。暴力、殺人が許される思想的な理由などある筈もありません。不条理がまかり通る世の中にすることが、革命への第一歩だと思います。
恒淳
梨木神社 かつての梨の木町にあった転法輪三條家の屋敷跡に建てられました。実美の実家です。
久邇宮朝彦親王(中川宮、青蓮院宮、幾度も改名)の令旨によって三条家の邸宅跡に三條實萬を祀る社殿が造営され、1885年(明治18年)10月10日、社号は地名から梨木神社とされました。別格官幣社の列格を受けました。その後1915年(大正4年)、大正天皇即位を記念して、子の三條實美を合祀しました。あれほど實美にいじめられた中川宮が創建の音頭をとったことに驚きました。文久三年のあのひどい状況も昔のことと、朝彦親王が恩讐を越えて建てたものでしょうか。實美が中川宮を虐める様は、第四章の後半に描く予定です。
幕末になお武士の本当の気風を残していた藩と言えば、薩摩と會津が上げられます。薩英戦争の時に見せた薩摩武士の気概、戊辰戦争でみせた會津武士の気概は政治的には逆の立場ながら、武士道としては似たところがあるような気がします。どちらの藩も独特の武士道教育が盛んで、子供の時から侍の精神を叩き込みました。會津藩には什という組織があり、薩摩藩には郷中という組織があり、少年の頃からこの組織で鍛えられたと言います。
佐是様、
「ならぬことはならぬものです」=「議を言な」、結びつけて考えたことはありませんでしたが大いに納得しました。
卑劣極まる攘夷急進派の権謀術数、マキャベリズムとはこういうものかと思いました。
こういう手段を択ばない考え方が、昭和初期の日本軍に引き継がれ太平洋戦争の悲劇を招いてしまったのではないでしょうか。天皇制の悪用も同じように思えます。
京都の騒乱、馬関戦争、薩英戦争、八・一八政変等々......文久の騒擾さを人々はどんな思いで見ていたのでしょうか。