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執筆者の写真佐是 恒淳

『四本の歩跡』第三章十五節「成敗を問わず」

 この小説は、ほとんど資料に準拠して書きました。姉小路卿の暗殺犯人は誰かという大きな謎について、状況証拠を集めて、私なりに想像しました。全くの創作です。

 歴史の真実はわかりません。私は、長州系の攘夷志士が犯人だと思うに至りましたが、長州系の中の誰かまでは、私の力では憶測さえできません。

 この大きな事件の犯人が不明であることは有名なので、かえって気が楽に、自分なりに犯人を想像しました。その陰謀工作について詳細は第四章 名残のほととぎす―公知― に描きますが、犯行の動機、犯人を暗示する最初の記述を十五節に書きました。


 文久三年(1863)4月から8月までの五ヶ月は、日本が政治的に乱れに乱れた時期で、まともな政治環境は全く失われます。三条たちによって、非を通すために理が通らない環境を作られてしまったからです。国家を転覆する最初の過程がどういうものだったのか、多くを知れるのが文久年間です。

  ペリー来航(1853)から7年後に桜田門外の変(1860)

  桜田門外の変(1860)から8年後に明治の御一新(1868)

幕末の動乱15年間の中間点が桜田門外の変だということです。それ以前は、老中阿部正弘を中心に、外圧の危機を感じながら人材を育成し、開国に舵を切り、国内体制を上手に開国に適応させる統制のとれた動きがみられます。阿部が死んでも開明的な幕府の方針は維持されましたが、日米修好通商条約を勅許なしで締結(1858)してから、朝幕関係が軋み始め井伊大老の暗殺に至ります。これ以降、幕威が低下し幕府一人ではやっていけなくなり、反幕倒幕派の台頭を許してしまいます。あとは一気呵成に幕府崩壊に向かいました。幕臣たちの印象では、薩長の兵は”時代の背に乗ってやってきた”ように見えたそうです。新政府軍は時代を味方につけるほどにイデオロギー的に成長していたのでしょう。


 あるまとまった時代の中間点に何が起きたかを考えると、その時代の特性が見えるような気がします。

 明治の御一新(1868)から敗戦(1945)までを天皇中心の時代を考えると、77年間。その中間点は日露戰爭に勝利(1905)し、外国勢力に侵略されまいと頑張って富国強兵の道を歩んだ明治の営みが一つの頂点に達したころです。このあたりまでは、幕末の幕臣が将来の目標として夢見た範疇に入る世界です。

 これ以降、第一次大戦をへて日本は大国となっていき、昭和に入って、明治憲法の運用を誤り敗戦に至ります。日露戦争/ポーツマス条約を中間点におくことによって、大日本帝国の77年間の興亡がはっきり見えるように思います。

 同じように、敗戦(1945)から現在(2024)までを戦後の復興、発展期と見ると79年間。大日本帝国の時代とほぼ同じ長さを経たわけです(ちなみに敗戦は明治78年、現在は明治157年)。

 敗戦後の時代の中間点は、プラザ合意(1985)です。円高ドル安誘導の政策が日米英独仏の五か国で合意されました。日本の復興、成長が極大点に達し、強すぎる日本経済の前にアメリカも手をこまねいた状況でした。アメリカ人からみて、敗戦国日本がここまでに、と舌打ちしながら悔しがる人が多かったことでしょう。合意発表翌日の9月23日の1日24時間で、ドル円レートは1ドル235円から約20円下落し、1年後にはドルの価値はほぼ半減し、150円台で取引されるようになったと言います。ここからバブルにいたるまで、日本円の強さ、日本人の裕福さは世界の驚異でした。日本が史上、初めて経験するような豊かな時代の始まりでした。


 井伊暗殺が幕末動乱の中間点だというところから、いろいろ、歴史を振り返って見ました。

                             恒淳



フランス軍に占領された長州前田砲台(ベアト撮影)

文久4年に下関は四か国(英仏蘭米)の17隻からなる艦隊に砲撃され、上陸をゆるして砲台はじめ沿岸部を占領されるに至ります。強引な攘夷をやるとこうなると、幕府が口を酸っぱくして言ってきたことを、自らやって見せたということだと思います。戦後、長州藩は幕命に従って攘夷を実行したのみと主張し、英米仏蘭に対する損害賠償責任は徳川幕府のみが負うこととなったようです。それにしても、幕府に従ったのみ、とはどの口が言う、と思いますが、言われっぱなしの幕府も、もはや国を代表する気概があるのかと思います。

私はパリの戦争博物館で、フランス軍が長州から分捕った大砲の展示を見た記憶があります。




閲覧数:6回2件のコメント

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2 Comments


北薗 洋藏
北薗 洋藏
Aug 25

佐是様、


攘夷急進派言うところの「成敗を問わず」は太平洋戦争時のB29に竹槍で応戦させようとした軍部と同じではないでしょうか。精神力への頼り過ぎは危険です。

最近、松下村塾思想を基とする攘夷急進思想が昭和日本軍の考え方と重なってしまいがちです。無謀な攘夷行動の行く末に気付き始めた姉小路の暗殺も五・一五事件、二・二六事件等と同様のように思えます。

国力の浮沈という視点で、ペリー来航、桜田門外の変、明治維新、日露戦争勝利、太平洋戦争敗戦、プラザ合意~現在 を初めて時系列で考える機会を得ました、ありがとうございます。

未来のことはわかるはずもありませんが、戦後80年近い間に日本には、国民全体の品位、平和指向的な考え、勤勉さ等々が定着しており、そう悲観的に考えなくても良いのではと楽観視しています。どういう未来になるのでしょうか、次世代、次々世代に期待します。

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佐是 恒淳
佐是 恒淳
Aug 25
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北薗様、

 攘夷急進思想は、割と最近まで、国民の間で正義の味方と見られてきたふしがあります。吉田松陰、久坂玄瑞、高杉晋作ら長州の急進派、あるいは武市半平太ら土佐勤王党は高い支持をえていると思います。松陰神社も大いに尊崇を集めています。

 司馬遼太郎は、「世に棲む日々」「竜馬が行く」で反幕府の立場で活躍した人物を描き、明治の輝かしい時代をつくった英雄譚のような気分を漂わせています(実は、司馬は吉田松陰を好いてはいなかったと聞いたこともありますが…)。通俗的な演芸、映画では、勤王志士が正義で、因循姑息な幕吏をやっつけるという話が多くつくられました。おそらく明治政府が熱心に政府の正当性を宣伝した結果だと思います。

 前にも書きましたが、会津藩(山川浩)の「京都守護職始末」はなかなか刊行の許可がおりず、明治44年まで待たなくてはなりませんでした。特に、容保に御宸翰がくだって天皇からその忠義を褒め称えられたことが世に知れることを嫌ったせいでした。このような明治政府の努力があって、尊皇攘夷の志士が正しいという世論が作られたようです。

 前政権を倒して新しい政権を立てることに倫理的な善悪論を当てはめることはできませんが、新政権ができたあとでは、倫理的な善悪論によって新政権の正当性を社会通念として広める必要があります。新政権の伊藤博文にとって、松下村塾出身は大切な経歴だったでしょうし、悪しざまに、天誅をやった暗殺者とはいわれたくなかったでしょう。

 新政権が樹立する前の段階で展開した詐術、謀略、暗殺、暴力なども、倫理的な悪ではなく、やむなくしたこと、こうした痛みを乗り越えて初めて新時代が招来されたというレトリックが用いられます。そこに、松陰風の「成敗を問わず」「国を憂える尊い目的のためにはいかなる手段をとっても罰すべからず」「己を捨てれば岩をも穿つ」など、ものすごい精神論が”いいもの”として、新時代を招来した思想として受け継がれる余地があったのだと思います。

 昭和初期の軍部で、”維新”という言葉をイデオロギーに満ちた社会変革という意味に用い昭和維新の概念を謳いました。当然、明治維新という言葉も造語されました。そのイデオロギーとは、君側の奸(世界情勢に通暁した重臣)を除き、軍部の純真忠義の心持で天皇を輔弼し(軍部の主張を天皇の権威で裏付け)、国家一体となって危機に臨むというものだったと思います。尊皇攘夷の思想的影響はかなりあって、戦前の右翼国家主義思想の源流につながると思います。

 5.15事件の犯人たちには、事件後、減刑嘆願が多く寄せられ、国を憂える士官のやったことだから重く罰すべきではないという雰囲気がありました。事実、驚くほど軽い罪でした。幕末の一場面と似ている気がします。さすがに2.26事件では重臣を殺された天皇の怒りが強く、犯人は軽い罪では済まず、銃殺になりました。2.26事件の首謀者は、5.15事件では首謀者らが死刑とならず軽い罪を問われたに過ぎなかったため、背中を押された面がありました。

 私は、昭和の思想史、とくに水戸学/尊皇攘夷思想の影響について関心がありますが、大きすぎて私の手に負えるテーマではありません。どなたかの研究があれば読んでみたく思います。

                         恒淳


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