攘夷という言葉は、幕末を語るキーワードの一つですが、具体的にはっきり定義されていないようです。夷狄(外国人)をうち攘うという概念は、では、何をすれば攘夷になるのか、何をしなければ攘夷にならないのか、不分明でした。一人一人が、その場その場で、異なることを考えていました。
攘夷といっても、米、英、仏、露、蘭との間の通商条約を破棄し、開港した港(下田、函館、横浜)を鎖じ、安政五年以前の元の鎖国体制にもどす、横浜居留地の外国人は強制追放する、近海を航海する外国船に向けて命中しないよう砲撃して沿岸への接近を拒否する、近海の外国船を砲撃して命中させる、などなど、外交交渉のレベルから戦争のレベルまで幅広い行動全てを攘夷と呼んでいたようです。さらに、もう一つの要素は時間です。じっくり年余にわたる時間をかけ丁寧に交渉するやりかたから、近々に実行という乱暴な緊迫したやりかたまでいろいろでした。
例えば、文久二年七月、幕府が大原勅使から勅を受け取ったころまでは、十年内くらいの時間的余裕をもって、通商条約を破棄し開港した港を鎖じるという話でした。この頃までは、長州藩でさえ航海遠略策を採っていたので、まだ開港維持の方針さえ残っていたのです。攘夷と言ったところで、外国船を砲撃し命中させるという策はありえませんでした。
文久二年八月、生麦村で薩摩の行列が英国商人を斬殺、重傷を負わせたことは、京都の攘夷派の間では、立派な攘夷と高く評価されました。これは、騎馬で行列に乗りかけることを日本人がやったとしても薩摩は同じように斬り捨てたでしょうから、外国人対象の行動ではなく、それなら攘夷行動ではなく、単なる行列守衛権の発動でしかないものです。それが概念を整理できていない攘夷志士の頭では、攘夷となってしまったのです。
文久二年末、攘夷別勅使が江戸にくると、急げ、十年などと悠長なことを言ってはいけないということになり、近々に条約を破棄しなければならないことになりました。翌年にでも将軍が上京し有力諸侯を集め、”攘夷”策を練ることになります(三章九節「亡国を目指す」)。
文久三年二月十二日、慶喜、春嶽、容保、容堂は攘夷開始を5月10日とする旨、いやいやながら止む無く、実美、公知らに文書を与えます。四人の想定したこの攘夷とは、条約を破棄し鎖港して異国人を立ち退かせる談判を開始する日と考えていました。これが幕府の攘夷(異国人を追い払う)でした。
ところが、久坂玄瑞ら、長州の攘夷急進派は、異国船を砲撃し異国船を追い払えればよし、当たればさらによしと考えていました。実際、五月十日には下関海峡(馬関海峡)で無警告で本当にアメリカ商船を砲撃しました。闇夜にこっそり船で近寄りいきなり砲撃しましたから、長州では、堂々たる侍の精神がないかのようでした。
慶喜、春嶽、容保、容堂は五月十日を攘夷期限と定めることに、いやいや合意しましたが、それは、幕府が条約破棄の談判を開始する日と理解したものでした。一方、三条、長州の攘夷激派にとって攘夷戰爭開戰の日というつもりでした。これほどに一語の意味が異なって用いられること自体、信じがたいことです。そういう誤解のもとで政局が紛糾していたのです。海音寺潮五郎の『西郷隆盛』第7巻「体制奉還の初声」P315(朝日新聞社、文庫版)には、このあたりの考察がなされています。私は最初、両者、ここまで誤解しながら突き進んだことが、信じられませんでした。
「攘夷」の概念さえ明確化、共有化できず、ひたすら観念的な排外気分が横行し、帝が御嫌いな夷狄/異国人にわが国土を踏ませるな、という狂気(その内実に冷徹な倒幕思想が潜んでいたかもしれないのですが)が世を覆っていました。ここまでヒステリックに見境なくなる熱狂が、ついには幕府を倒し新政府を樹立する原動力になります。明治の元勲は倒幕運動に成果をあげた志士上りで、若いころ天誅をやってのけた長州系暗殺者が総理大臣(伊藤、山縣)になっていきます。明治ご一新の光と影です。
二條城堀川石垣 堀川は、京都府京都市を流れる淀川水系の河川で終戦後、下水道整備によって水流はほぼ消滅しましたが、平成になってから水流を復活させる事業が実施され、かつての景観が復活したそうです。春嶽が京都所司代屋敷に向かった道でもありました。
佐是様、
少なくとも日本全土、世界情勢の現状を把握している幕府側とすれば、稚気のような攘夷論を振り回す急進派を抑えられないとは遺憾千万の思いだったことでしょう。幕府権力の衰退を感じます。
この時期は正常な議論は置き去りにされ、パワーゲームそのもののように感じます。“話せばわかる”人間など、攘夷急進派にはいなかったのでしょう。
“攘夷”という単語の解釈の多様さに驚きを感じました。“言葉”は人間の手に入れた一番便利な道具なのでしょうが、誤解や齟齬を生みがちな怖さを再認識しました。日常生活の中でも解釈違いを感じることもありますが、戦争や国際紛争の原因にも言葉の解釈違いが含まれているのかもしれません。
薩摩藩が鳴りを潜めているようですが、特に島津久光は攘夷急進派の動きを苦々しく思っていたことでしょう。