文久三年三月にもなると、攘夷急進派の大きな政治目標は、天皇行幸を行って、それを親征に転化させることになってきます。一方で、天誅で京都に駐在する幕府機能を混乱させ、攘夷期限を確定して外国人掃攘、異国船打払いの実行を進めるようになります。真木和泉の構想した倒幕と王政復古のシナリオが一歩、一歩進んでいきます。この間、真木は国許の久留米藩で囚獄されています。
會津藩の千の兵力で、攘夷急進派の公家、長州志士、その他の脱藩者などを一掃することはできても、逆に政治で負けてしまう情況ですから、軍事力を行使するわけにもいきません。容保は治安を保つため、警察力を行使しますが、軍事力は封印しています。本格的な警察力の行使は足利将軍木造梟首事件が初めてです。容保はこれまで、志士たちに宥和的な態度を取ってきましたが、志士たちの行動が、倒幕思想を秘め治安を乱すことを目的とするものだと認めざるをえなくなったためでした。刑事犯の捜査、逮捕などという警察業務は、堂々たる大名の仕事ではないというのが江戸幕府の建付けですから、容保は、こうした活動に足を突っ込みたくはなかったでしょう。だから、警察権の管轄範囲で騒動を起こし幕府を混乱させる天誅戦術は有効でした。会津藩は手を付けにくく、新選組を配下に使ったのでした。
この小説では新選組には言及しませんが、将軍家茂の京都滞在時、将軍警固を目的に結成されたのは、文久三年二月ころ。小説のこの節の舞台と一致します。そんな悩み多き容保が一年間を過ごしたのが金戒光明寺。京都市民は黒谷さんと親しみを込めて呼んだ巨刹でした。
京都黒谷の金戒光明寺山門 浄土宗の巨刹。江戸時代初期、幕府によって城郭風構造に改修されました。京都守護職は軍事的な機能も持っていましたから、防禦に強い造りということで、松平容保の仮の本陣とされました。元治元年(1864年)正月、現在の京都府庁のあたりに京都守護職屋敷が完成するまで、ほぼ一年間、京都守護職が置かれていました。
佐是様、
政令二途問題、実美議奏辞職、学習院警護など、幕府と攘夷急進派の権謀術数の動きを理解することができました。様々な裏面工作に距離を置き、紳士然たる姿勢を保っていた容保も、急進派の暴論、横暴に腹を据えかねたことも当然だと思います。
朝廷を蔑ろにしたという理由で足利将軍木像梟首事件を起こすなど、逆に朝廷を軽んじているのは攘夷急進派なのではと問い返したくなります。
いよいよ、容保や薩摩の動向も激しくなる様子、次回以降も楽しみです。