世界の情勢もわきまえず、徳川打倒の一念で無理難題を言い立てる者を愚者と言うなら、言い立てられた無理難題を毅然と拒否せず、なんとなく言いくるめられ不本意ながら承諾してしまう者を弱者と呼んでみました。
愚者が横行するのも亡国の一因なら、弱者が仮にも政権を握っているのも亡国の一因だと思います。一橋慶喜や松平春嶽は、困難に立ち至ると、すぐ辞職します。最後までやり通し職務と共倒れになっては幕府にとって困ると考える立場もありますが、どこか腰が据わっていない。あとはよきように計らえ、という殿様根性が丸見えです。
松平容保も根っからの殿さまですが、死しても徳川宗家を守れという家訓が頭にあって、辞職を軽々しく口には出しません。純粋な気持ちで公武一和を目指すため、警察権を行使しても武力は行使しないと自ら呪縛を掛けていることもあって、攘夷の志士から一応は恐れられても、どこか、甘く見られるところがあります。
文久三年が明けるや、公家に従順だった攘夷急進志士は次第に主導権を握り始めます。急激な攘夷に対する公家の冷静で慎重な意見を日和見と見て、急激攘夷に与するよういろいろの圧力をかけ始めるのもこの頃です。
あとから見れば、何故、このような理不尽がまかり通るのか唖然とするような時代が文久二年後半から三年前半まで続きます。理不尽の世が極点に達した時、驚くような大事件が起こり、京都から理不尽が一掃されます。八月十八日政変を第四章に書くつもりです。
堺町御門 門の右側は鷹司邸、左は九条邸で、両邸間の南北通路の中ほどにに建っていました。安政五年には大勢の下級公家が九条邸に押寄せたことがあります(第四章)。文久三年には鷹司邸に大勢が押寄せます(第三章十一節)。九条尚忠も鷹司輔熙も攘夷激派には押し掛けられさんざんの目に遭いました。
佐是様、
私は実美には征韓論騒動時に過労で倒れてしまったひ弱なイメージを持っていました。その見方がこの小説で変わりつつありましたが、今回その弱さを垣間見たように感じました。
攘夷急進派の行動に人間の本能なのでしょうか、凶暴性と集団心理を見るような気がします。
慶喜、春嶽の行動の変わりやすさと対照的に京都守護職として最後まで行動を変えようとしない容保に悲劇性を感じます。