top of page
執筆者の写真佐是 恒淳

『四本の歩跡』第三章十一節「愚者と弱者」

 世界の情勢もわきまえず、徳川打倒の一念で無理難題を言い立てる者を愚者と言うなら、言い立てられた無理難題を毅然と拒否せず、なんとなく言いくるめられ不本意ながら承諾してしまう者を弱者と呼んでみました。


 愚者が横行するのも亡国の一因なら、弱者が仮にも政権を握っているのも亡国の一因だと思います。一橋慶喜や松平春嶽は、困難に立ち至ると、すぐ辞職します。最後までやり通し職務と共倒れになっては幕府にとって困ると考える立場もありますが、どこか腰が据わっていない。あとはよきように計らえ、という殿様根性が丸見えです。

 松平容保も根っからの殿さまですが、死しても徳川宗家を守れという家訓が頭にあって、辞職を軽々しく口には出しません。純粋な気持ちで公武一和を目指すため、警察権を行使しても武力は行使しないと自ら呪縛を掛けていることもあって、攘夷の志士から一応は恐れられても、どこか、甘く見られるところがあります。


 文久三年が明けるや、公家に従順だった攘夷急進志士は次第に主導権を握り始めます。急激な攘夷に対する公家の冷静で慎重な意見を日和見と見て、急激攘夷に与するよういろいろの圧力をかけ始めるのもこの頃です。

 あとから見れば、何故、このような理不尽がまかり通るのか唖然とするような時代が文久二年後半から三年前半まで続きます。理不尽の世が極点に達した時、驚くような大事件が起こり、京都から理不尽が一掃されます。八月十八日政変を第四章に書くつもりです。



堺町御門 門の右側は鷹司邸、左は九条邸で、両邸間の南北通路の中ほどにに建っていました。安政五年には大勢の下級公家が九条邸に押寄せたことがあります(第四章)。文久三年には鷹司邸に大勢が押寄せます(第三章十一節)。九条尚忠も鷹司輔熙も攘夷激派には押し掛けられさんざんの目に遭いました。

閲覧数:9回2件のコメント

最新記事

すべて表示

2 Comments


北薗 洋藏
北薗 洋藏
Jul 20

佐是様、


私は実美には征韓論騒動時に過労で倒れてしまったひ弱なイメージを持っていました。その見方がこの小説で変わりつつありましたが、今回その弱さを垣間見たように感じました。

攘夷急進派の行動に人間の本能なのでしょうか、凶暴性と集団心理を見るような気がします。

慶喜、春嶽の行動の変わりやすさと対照的に京都守護職として最後まで行動を変えようとしない容保に悲劇性を感じます。

Like
佐是 恒淳
佐是 恒淳
Jul 21
Replying to

北薗さま、

征韓論の可否を問われ、のっぴきならぬ立場に追い込まれた三條實美は倒れて人事不省になったことから見て、ひ弱な人だと思います。ただ、倒れたことになっていますが、その振りをしたのが本当のところではないかと個人的に思っています。逃げようがなく、それでも何としても逃げなければならないときは、病と称するのが、この当時の公家のやりかたでした。周りもそれと知って、お公家だから仕方ないと諦めていたのではないでしょうか。


大きな国家観をもたず、だから幕府を倒すべきだという考え抜いたロジックもなく、新しい世にして日本の未来を切り開くビジョンもない人が、あれよ、あれよと、風をはらんだ凧が舞い上がるように権力の高みに到った人だと思います。ただ、そこに到るのですから、公家特有の巧みさ、ずるさ、陰でこっそり都合よくものを謀る策略は十分もっていました。では、三條の倒幕の情熱は何なのか、この小説を書く時、悩んであれこれ調べました。そして、倒幕の本当の動機は、父實萬を罪においやって謫居で父を死に至らしめた幕府(井伊直弼の大獄)への怨みなのではないかと、思うに至りました。


   文久三年一月二十日、伊達宗城が大久保一藏と三條實美について密談。

  「三條、心根は前内府殿、幕府より戊午の冤罪につき遺恨これあり。いよ

   いよ暴論を申し邪魔いたし候、大いに心得違いにて右は在人不在幕と申

   し候也」(伊達宗城在京日記)


實美の行動は、父を冤罪でなくした怨みにより暴論を言って邪魔をしているだけなのだ、という大久保の見方を伊達宗城が残していました。私は、これをもとに、實美の怨みがどのようなものだったか、實美は何を考えたのか、實美が目指したのは貧から抜け出て栄耀栄華を味わうことだったのではなかったか、など小説に展開しました。實萬が鮒鮓を喰って死んだ、その後實美は鮒鮓が食えなくなった、というのは私の作り事です。冷泉為恭が實萬と親しかった経緯は本当のことですが、冷泉の名で鮒鮓が實萬に届けられたのかもしれないという疑惑は、私の作り事です。


三條實美が容堂と別室で話したおり、「予が身の上をも推察せられたし」と言ったという話は『昔夢會筆記 第十八 2項』(東洋文庫76 P297)にあり、これは、直後に、慶喜が容堂から直接聞いた話をあとで語ったものです。同席していた松平春嶽も、この話を『続再夢紀事』に残しました。

三條實美はいかにもひ弱ですが、こう言えば、慶喜や春嶽らに伝わり、ともかくも攘夷期限を決めさせるのに有利だろうという、ずるい計算があったかもしれません。久坂や寺島ら長州攘夷激派から、脅迫を受けていたのも事実でしょうが、それをいいことに、巧い言い回しを容堂に使ったのかもしれません。発言に必ず裏のある人ですから…


案の定、容堂は、三條實美の置かれた立場を憐れがり、ばかばかしくもあり、情けなくなって、三人の待つ部屋に戻って伝えました。三條は、幕府の言い分を理解してはいるのだが、浪士らに強迫され余儀なく、このような立場におかれているのであれば、何とかしてやってはいかがだろうか、くらいのことを言って、5.10の攘夷期限が決まったようです。大名だから甘いと言えば甘い、まんまと三條實美の口車に乗せられました。こんな些事の積み重ねで、倒幕、維新のような大きな歴史が動いたのです。


攘夷急進派の浪士たちに、凶暴性と集団心理があったのは間違いないと私も思います。自らの死を怖がらず、他人の死を平然と受け流せる暗殺者心理は狂暴そのものですが、松下村塾生に広く見られ松陰由来の思想だと思います。


                            恒淳


Like
bottom of page