尊皇攘夷を目指すグループがたくさんありました。長州や土佐の攘夷派は、公武合体の藩是と藩内で対立しながら活動を展開していました。文久二年末までは、土佐勤王党と長州の攘夷急進派は歩調を共にしますが、土佐の容堂が京都に来る(文久三年正月)や、次々と土佐勤王党の主だった者の攘夷運動を差し止め、国に追い返します。国に帰されてから、容堂の指示で勤王党は大弾圧を受け壊滅します。
長州の攘夷派は、下関で外国船を砲撃し、その後、外国艦船から砲撃を受け、上陸してきた外国兵に大負けするなど苦難が続きますが、高杉晋作の奇兵隊が長州藩の本隊を打ち破るなど藩内クーデターをやってのけ、長州藩ごと攘夷すなわち倒幕軍にさせてしまいます。
文久二年冬の段階で、容堂は、長井の航海遠略策を破棄した長州をいかがわしく見ていました。長州藩主の毛利慶親は何事も家臣の持ってきた案に承諾を与えることで有名で、「そうせい」と言う承諾の言葉をもじって、「そうせい公」とまで陰口をたたかれた人ですから、容堂とは全く肌合いの異なる人です。
水戸の斉昭と東湖、土佐の容堂と東洋などは、うるさ型で、家臣、下僚の持ってきた案をほいほい承諾するようなことは考えられない気質です。なにか、一言、辛辣な言葉があるような人たちです。ですから、容堂から見れば、長州は物を知らない攘夷論の若侍が好き勝手にやり放題、国を誤るのではないかと危ぶんでみていました。藩主の慶親がしっかりしないものだから、この体たらくだと、長州を侮蔑の気分でみていました。それが、世子定広に招かれた親睦の場で、ひどく当てつけるような辛辣な対応になった背景です。この話は、『防長回天史』三篇上488頁/250コマ(「万延文久記/上下」末松謙澄三、大10年/国会図書館デジタルコレクション)に載っている話です。
攘夷という政治スローガンの下には、いろいろの人物の様々な感情が混じり込み、藩内事情と絡み合いながら、複雑な軌跡を描いて、倒幕にいたります。前政権を武力で倒し新政権を打ち立てるということは、陰謀、策略、感情のすべてがごった煮のように煮込まれた結果で、革命勢力が一枚岩であるはずはありません。その一断面をこの節で描いてみました。
恒淳
萩城の天守閣(VR再現) 高知城
佐是様、
なかなか迫力のある容堂と長州攘夷急進派とのやりとりでした。
久坂も容堂を前にし、元寇の神風を吟じるなど攘夷という熱病に侵されているとしか思えません。
この時点で容堂と定広では藩政経験も違い、重みが違うのも致し方ないのでしょうが容堂も少々やり過ぎのような気がしました。
いずれにしろ、容堂と長州急進派が会すればもめ事がおこるのは必然でしょう。
水戸、長州、土佐、薩摩、いずれの藩も内輪もめが多いようです。