冷泉為恭は個性的な絵師でしたが、京都所司代の酒井忠秋とつながりを持ったゆえに天誅に遭います。司馬遼太郎の『幕末』の中の一話「冷泉斬り」で小説化されています。この短編小説では少し通俗化し過ぎの気味もありますが、絵師としてなかなかの人物だと思います。『伴大納言絵巻 冷泉爲恭復元模写』中野幸一編(勉誠出版/二〇一〇)や『本朝画人伝(下)』「冷泉為恭」村松梢風(中央美術社/昭八)には、為恭の業績が書かれています。実万と親しく付き合ったことは『三條實萬手録』日本史籍協会叢書一二五、一二六/東京大学出版会/一九七五や『忠成公御幽居日記』日本史籍協会/大五 に記されています。
実万が鮒鮨に仕込まれた何らかの毒で死んだのかもしれないというのは私の創作です。下痢が水寫に至り枯れ木の様に痩せ細って亡くなったという症状から、コレラを考えることだってできるかもしれず、死因を特定することはできません。私はここに冷泉為恭を絡ませ、三条実美の父の怨みが最も深い感情的なレベルで、倒幕思想を確立する一つの要因だったと創作しました。
洛北一乗寺村堀の内の謫居にて三条実万が亡くなったのは、安政6年10月6日(1859年10月31日)。井伊直弼の亡くなる五ヶ月前のこと。一時代が終わったのかもしれません。
苛烈な政治弾圧が進行中の頃でした。
久坂が芸妓の秀勇の助けを借りて、長井の建白書の写しを盗み見た話(第三章五節「愛妓の侠気」)も半分、私の創作です。『幕末防長勤王史談』によれば、久坂は愛人の秀勇を通じてこれを入手したとありますが、村松剛は自著『醒めた炎』上364頁で反論しています。「秀勇が朋輩の芸妓に依頼して、長井が酔ったすきに彼の懐から建白書の控えを盗ませたというのだが、はなしが面白くできすぎていて信用しがたい。そんな手段を弄さなくとも侍従忠愛にたのめば、写しの入手は容易だったであろう」とあります。私は、秀勇が直接、自分で長井から一時、盗み出し、またもとに戻して置いたと創作しました。
できるだけ史料に準拠する方針を取っていますが、話の面白さを追求する場面もいくつもあります。
ネットで「祇園芸妓」で検索すると、たくさんの
動画が出てきます。秀勇もこんな感じかと
想像しました
佐是様、
冷泉為恭の動きに危うさを感じながら読んでいました。やはり、誅殺される運命の人物でしたか。
伴大納言絵詞がでてきましたが、最近海音寺潮五郎の「悪人列伝」で伴大納言を読んだばかりでした。井伊直弼は採りあげられてはいませんでしたが、手段はさて置き、両名とも権力に固執したことは事実なのでしょう。直弼の場合はあくまでも幕府の権力強化のために強権政治を行ったのに対し、伴大納言善男の方は個人の権力欲が異常に強く、その一策として応天門まで焼き払ったという陰湿なイメージを感じました。
何れにしろ、安政の大獄が尊皇攘夷派を過激にしてしまったのではないでしょうか。
鹿児島は郷土料理に酒ずしがよく出てきますが、鮒鮨はあまりなじみがありません。島津斉彬が好きだったという、馴れ鮨のようなものではないかと思いました。