あれほど優勢だった航海遠略策があっという間に潰れ、長州藩の藩是は一気に尊皇攘夷に転換します。久坂が愛妓の助力を得て長井の建白書を盗み見たというのは、『勤王芸者』小川煙村著(明治43年刊;国会図書館デジタルコレクションですぐに見られます)を参考にした私の創作です。
長井の説には、朝廷を貶める匂いがあるとのことで、朝廷から支障が入ったのは長井にとって驚きだったでしょう。
朝廷には、日本は古来から外国との付き合いを絶った国だと根拠なく信じていた公家も多く、安政五年に、米英仏蘭露などと通商条約を結んだことは、先例に照らしても、それほど不自然ではなかったという視点が欠けていました。鷹司太閤が一度、元に帰るのだという旨発言して朝議を驚かせたことがありましたが、朝廷の歴史認識はその程度でした。おそらく孝明天皇も誤解していたふしがあり、自らの代に穢れた醜夷との付き合いを許したとなれば、先祖に顔向けできないと嘆いたこともおありでした。その歴史的な誤解/無知に触れられたのが不快で、長井の説が葬られたようなものでした。
文久二年夏には、島津久光が大兵を率いて上京して、勅使を警固して江戸に向かいます。幕府に、一橋慶喜を後見役に松平春嶽に大老に、という政治改革案を呑ませて帰ってきます。京都は天誅騒ぎでむごたらしい斬殺が横行していました。
高瀬川 その畔は天誅の舞台にもなりました
佐是様、
吉田東洋の大局的視点の政策を潰し去った土佐勤王党、長井雅楽の遠略航海策を姑息な手段で葬り去った松下村塾一派。両派とも対抗勢力の考えに“聞く耳持たぬ”のただのテロ集団に思えてきました。とは言え、攘夷急進派も外国の実力を目の当たりにし、方向転換をするわけですが、それがなぜ倒幕に向かうのか、幕府側から見れば理不尽な話ではないでしょうか。
田中新兵衛も武士の生まれではないので、やはり薩摩藩の差別を思い浮かべます。長州、薩摩、土佐の下級武士、郷士層の差別に対する鬱憤が倒幕への一要因であるのは確かだとは思います。
どうも私の頭の中は、公武合体派のようです。