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執筆者の写真佐是 恒淳

『四本の歩跡』第三章五節「愛妓の侠気」

 あれほど優勢だった航海遠略策があっという間に潰れ、長州藩の藩是は一気に尊皇攘夷に転換します。久坂が愛妓の助力を得て長井の建白書を盗み見たというのは、『勤王芸者』小川煙村著(明治43年刊;国会図書館デジタルコレクションですぐに見られます)を参考にした私の創作です。


 長井の説には、朝廷を貶める匂いがあるとのことで、朝廷から支障が入ったのは長井にとって驚きだったでしょう。

 朝廷には、日本は古来から外国との付き合いを絶った国だと根拠なく信じていた公家も多く、安政五年に、米英仏蘭露などと通商条約を結んだことは、先例に照らしても、それほど不自然ではなかったという視点が欠けていました。鷹司太閤が一度、元に帰るのだという旨発言して朝議を驚かせたことがありましたが、朝廷の歴史認識はその程度でした。おそらく孝明天皇も誤解していたふしがあり、自らの代に穢れた醜夷との付き合いを許したとなれば、先祖に顔向けできないと嘆いたこともおありでした。その歴史的な誤解/無知に触れられたのが不快で、長井の説が葬られたようなものでした。


 文久二年夏には、島津久光が大兵を率いて上京して、勅使を警固して江戸に向かいます。幕府に、一橋慶喜を後見役に松平春嶽に大老に、という政治改革案を呑ませて帰ってきます。京都は天誅騒ぎでむごたらしい斬殺が横行していました。


 


高瀬川 その畔は天誅の舞台にもなりました

                      

閲覧数:5回2件のコメント

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2 Comments


北薗 洋藏
北薗 洋藏
Jun 08

佐是様、


吉田東洋の大局的視点の政策を潰し去った土佐勤王党、長井雅楽の遠略航海策を姑息な手段で葬り去った松下村塾一派。両派とも対抗勢力の考えに“聞く耳持たぬ”のただのテロ集団に思えてきました。とは言え、攘夷急進派も外国の実力を目の当たりにし、方向転換をするわけですが、それがなぜ倒幕に向かうのか、幕府側から見れば理不尽な話ではないでしょうか。


田中新兵衛も武士の生まれではないので、やはり薩摩藩の差別を思い浮かべます。長州、薩摩、土佐の下級武士、郷士層の差別に対する鬱憤が倒幕への一要因であるのは確かだとは思います。


どうも私の頭の中は、公武合体派のようです。

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佐是 恒淳
佐是 恒淳
Jun 09
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北薗様、

 ありがとうございます。

 私の幕末に思う印象は調べるうちに培われたもので、それを基に何かに書いてみたくなってこの小説に至りました。北薗さまと同じ思いです。


 明治の元勲たちが、”聞く耳を持たないただのテロ集団”の一員だったと思っていた人は、明治十年代、いや二十年代になっても、たくさんいたと思います。明治政府、というより、”テロ集団”上りの明治政府高官たちが最も恐れていたのは、そういう幕末の頃の暗殺の実績、幕府側の諸藩を謀略で政治的に追いこんだやり方を世に知られることだったようです。私は、この種のエピソードを多くは知りませんが、有名な「京都守護職始末(山川浩著)」の刊行(明治44年)に長州出身の陸軍中将三浦悟楼が反対したというエピソードを紹介します。

 三浦という人は、弘化3年〈1847年〉生まれ - 大正15年〈1926年〉歿。奇兵隊に入隊し第二次長州征伐や戊辰戦争に従軍。長州出身ながら藩閥政治に反対する立場をとり、また山縣有朋とは奇兵隊時代から不仲であったこともあり、谷干城・鳥尾小弥太・曾我祐準らとともに反主流派を形成し、山縣有朋や大山巌らと対立。貴族院議員を勤めたひとです。明治政府の本流のひとではありませんが、それでも、「京都守護職始末」の発刊に反対したのは、この書に、松平容保に宛てた孝明天皇御宸翰のことが書かれているからでした。

 

 この本が論証しようとしたのは松平容保が公武合体を支持する孝明天皇の叡慮を奉じていかに尽力したかという点です。この見方に立てば、長州藩、ひいては薩摩藩の攘夷運動や倒幕運動が孝明天皇の意に背いた行動と見做されることになると三浦は恐れました。そうなれば、薩長土を中心とする勤王運動によって明治維新が成就したとの通説がひっくり返り、薩長出身者を中心に政権をたらいまわしにしていた藩閥勢力の歴史的根拠が失われる事態になると懸念しました。事はたんに幕末政治史の真相がどうであったかという歴史学会の問題にとどまらず、ひろく思想問題また政界に深刻な動揺を起こす政治問題となることを予測したからでした(「京都守護職始末」平凡社刊 昭43、1巻解説、遠山茂樹)。

 明治政府は天皇の権威によって成立した政権でした。それが孝明天皇の意(公武合体)に反していたとなれば、幼い明治帝を掌中にした薩長の勤王志士らが陰謀によって作り上げた政権に過ぎないということにもなりかねません。この主旨を、小御所会議で、土佐の容堂が不注意な言い回しで口にし、岩倉から咎められて黙るしかなかったというエピソードにもつながります。

 元勲であればあるほど、明治政権成立のいかがわしさに気付いていたはずです。国民に知られてはならない秘密を抱えて、注意深くやってきたのでしょう。明治44年当時でさえ、恐ろしい禁断の書だったようです。明治政府の光と影は、同じように両面知らなければならないと思うのです。清新な時代、封建のくびきから解放された素晴らしい時代という面もたしかにあります。しかし影の面も知るべきでしょう。

                              恒淳


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