井伊直弼暗殺後の長州の動きにおいて、丙辰丸で水戸藩と盟を結びました。これが坂下門外の変(文久二年正月 1862)につながります。井伊の政策を踏まえた安藤が狙われ、井伊の唱えた公武一和が強い反対を受けたことになります。
この盟約が結ばれたのが丙辰丸の船内でした。丙辰丸の建造された背景は次のようです。
黒船来航後の嘉永六年(1853)9月15日、ようやく幕府は大船建造の禁(1609年発布)を解除しました。天保13年から水戸の徳川斉昭は大船建造の禁を解いて日本も大船の軍船を持つべきだと説いてきました。島津斉彬も、嘉永四年(1851)年5月、鹿児島にて肥後七左衛門、宇宿彦左衛門、市来四郎らに蒸気機関のひな形製作を命じ、大船建造の調査を開始しました。嘉永になると、大船建造の気運は日本中で高まりました。
その流れで、長州藩の桂小五郎は洋式軍艦の建造を藩に上申し、自ら鳳凰丸を建造した浦賀の中島三郎助を訪れて洋式船の建造を学びました。桂の意見書などにもとづき、安政3年(1856)1月、長州藩は洋式軍艦の建造計画に着手しました。丁度、薩摩では、島津斉彬が海軍創設を決意し、伝習生を長崎海軍伝習所に送ることにしたころです。
長州では、幕府が伊豆国の戸田村で建造した君沢形帆船の造船技術を参考とすることにし、長州の船大工、尾崎小右衛門を戸田村及び江戸に派遣し、君沢形建造に携わった船大工の高崎伝蔵を招聘しました。
君沢形の帆船とは、安政の大地震の津波で船を破壊された露使プチャーチンの願いを容れ幕府が伊豆の戸田で、ロシア側から造船技術の指導を受けながら建造してやった帆船(ヘダ号)の技術を受け継ぎ、その後、日本で次々に造船された一群の西洋型帆船のことです。このあたりの経緯は、拙著『方略は胸中にあり』に書いたことがあります。その君沢形のことです。
安政3年2月、藩主毛利敬親から正式の建造命令が出されました。安政3年(1856)4月、帰藩した尾崎小右衛門らは、萩の小畑浦の恵美須ヶ鼻にて、造船所の建設と船の建造を開始しました。新造船は安政3年12月に進水し、安政3年の干支にちなんで「丙辰丸」と命名されました。4年後の万延元年(1860)、江戸に遠洋航海に来ていた丙辰丸で、水戸と盟約がなったというわけです。
丙辰丸 長州初の西洋型帆船。
佐是様、薩長土の藩内事情が気になります。
この頃の薩摩は、激派は存在するものの藩の政策としては公武合体策だと思います。長州は吉田松陰が松下村塾生に攘夷の火をつけていなければ、航海遠略策を藩の政策として進めて行けたのではないでしょうか。山内容堂にしても元来公武合体の考えのはずなので、武市半平太を中心とする勢力を早めに鎮静化するべきだったように思います。英雄視されることの多い吉田松陰、武市半平太ですが良いにつけ悪いにつけ、その影響が大きかったように思います。
寺田屋で闘死した有馬新七の誕生地碑と墓所の写真を添付しておきます。
墓所(鹿児島県日置市伊集院町)
誕生地碑(鹿児島県日置市伊集院町)