『島津久光 幕末政治の焦点』町田明広(講談社2009)によると、通説では「尊王攘夷派」と「公武合体派」に二分された勢力が政争を繰り広げたとされるが、実態を正しく把握した分類と言えず真の対立軸は、攘夷をいかに実行するか、その期日と方法の差だとされています。そう考えれば、「即今破約攘夷」(三条実美、国事参政・寄人、長州藩など)と「攘夷実行慎重派」(孝明天皇、中川宮、近衞忠煕ら上層廷臣)と分類したほうがいいと提唱しました。
文久年間、長井の航海遠略策がつぶされると、開国して皇威を世界に伸べるは大いに結構、通商して民を富ませ国を強くするは大いに意義あり、という意見は口にするのもはばかられる状況でした。だから、穏便に、ゆっくり攘夷(開港から再鎖国へ)しましょうというのが穏健派になったのでした。ひたすら開國に反対した孝明天皇の影響力でした。
「即今破約攘夷派」は、何故、今すぐ通商条約を破棄せよと急な攘夷を求めたのか、それは、急速攘夷や武力攘夷をやれば幕府が外国から責められ困難に陥るからであり、攘夷を早く実現したいというより、幕府を弱体化させたいというのが狙いだったように思います。天皇が、幕府の主導で早く外国人の日本入国を止め外国との付き合いを止めたいという心と、外見は似て、内実は全く異なっていました。
だから私は、町田の分類にも少し不満で、幕府を倒すため無理で理不尽な攘夷を唱える「倒幕理不尽攘夷派」と、異国人を遠ざけたい一心で幕府に頑張ってもらいたい「親幕異人忌避攘夷派」に分けるのがいいと思っています。対立軸は、攘夷を利用して幕府を倒すのか、幕府に力を貸して異人流入を止めるのか、だと思います。
たとえば、ほんの数か月前、大原重德が島津久光の護衛されて勅旨を届けたときは、攘夷実行は「七、八年ないし十年の猶予」を認められていました。即今に破約するという話ではなかったのです。それが、即今に変わった。水野筑後守忠徳が小笠原長行に建言したように、幕府が今回の勅旨は前回と矛盾すると指摘し、三条、姉小路は本当に正式の勅使なのか、私称するだけの偽勅使で、勅旨偽造の大罪を犯しているのではないか、正式の勅使なら、前回と矛盾する勅旨を出すのはいかなる意図か、など、いかようにも朝廷に言い立てられたのです(二章十節「焦土と化すも」)。毅然たる態度をとれなくなった幕府がずるずると理不尽を吞まされていくのが文久年間です。
文久二年秋から天誅が始まり、京都は凄惨な状況になります。与力が天誅に遭うくらいですから、通常の警察組織(町奉行)では、太刀打ちできず、ついに治安機動部隊(京都守護職)の駐在となりました。
倒幕攘夷派にとって、幕府を倒すために治安を乱すのも立派な作戰です。暗殺によって政界に物を言わせなくするのもいい作戰です。あらゆる手段を総動員して倒幕に動き始めたのが文久二年からだと思います。
鴨川の河原には天誅の犠牲者が晒し者にされました。繁華な橋の下には凄絶な風景が広がっていました。
佐是様、
この時期の三通りの勢力分類(一般説、町田説、佐是説)の考察、じっくり考えてみたいと思います。
この分類に開国通商の考え方が存在しないのを寂しく感じました。航海遠略説を葬り去った土佐勤王党の行動は大問題だったように思います。結果だけ見れば、航海遠略説の方向に行くわけですから。
倒幕の考え方はいつごろから始まったのか、よくわかっていませんでしたが、今回で納得できました。
長州、土佐、薩摩など派閥争いが目立ちますが朝廷も同じで、たしかに数カ月で内容の違う勅旨が下されるなど、日本中の混乱の象徴のように思いました。