松陰門下の久坂玄瑞と寺島忠三郎が登場します。二人を理解するために師の吉田松陰を逸話で紹介していくことになります。取り上げた吉田松陰の事跡は次のようです。
●嘉永5年(1852年)宮部鼎蔵らと東北旅行を計画。出発日の約束を守るため、長州藩からの過書手形(通行手形)の発行を待たず脱藩して出発。藩法違反でしょう。
●嘉永7年(1854年)ペリーが日米和親条約締結のために再航した際には、金子重之輔と2人で、海岸につないであった漁民の小舟を盗んで下田港内の小島から旗艦ポーハタン号に漕ぎ寄せ、乗船した。米国に連れて行ってほしいと頼むも密航を拒否され、小舟も流されたため、下田奉行所に自首し伝馬町牢屋敷に投獄された。ペリーにとって、密航を許して松陰を米国に連れていったことが幕府に知られれば、微妙な時期にある日本との外交に支障をきたすと判断し拒否したもの。
●安政五年(1858年)間部暗殺計画を提言。老中首座間部詮勝が孝明天皇への弁明のために上洛する機会をとらえて条約破棄と攘夷の実行を迫り、それが受け入れられなければ討ち取るという策である。松陰は計画を実行するため、大砲などの武器弾薬の借用を藩に願い出るも藩は拒否、再び投獄される。
こういうマインドで国の危機を捉えた松陰の愛弟子が久坂や寺島らです。他に伊藤博文、山縣有朋など明治維新の功労者が多くいます。彼らは、幕府の外交施設を焼き討ちし、様々な暗殺をやりました。現在もなお、吉田松陰は地元で篤く尊敬されているように、松陰の精神は彼らを通じ明治日本に伝わったかもしれません。
私は、動機が正しければ、いかなる行動も正当である、という類いの考え方は、昭和になって要人暗殺を実行した青年将校にも嗅ぎ取れるのではないかと思う時があります。
松陰の指差すのは、密航を頼むペリー座乗のポーハタン号か、はたまた日本の明日か。
佐是様、
吉田松陰、武市半平太は人脈が限られていたのでしょうか、情勢判断や謀略行動に疑問を感じます。松下村塾、土佐勤王党、誠忠組は今のところ、攘夷激派の集まりのように思えますが、激情のなかにも冷静に情勢判断をした人物が活躍の場を見出していくように思います。
毛利氏、長曾我部氏、島津氏、関ケ原西軍の遺恨と下級武士に対する長年の差別の影響の大きさを感じます。
因みに、鹿児島県姶良市に木津志という山奥の集落がありますが、長曾我部の家臣が山内一豊に追われ、島津義弘を頼って四国から移住してきた場所だそうです。田の神様探しの途中で、ご老人にその話を伺って驚いたことを覚えています。平家の落人ならぬ長曾我部の落人でしょうか。
写真は小伝馬町の「松陰先生終焉之地」の石碑ですが、揮毫がなぜ荒木貞夫なの不思議に思っていましたが、なるほどと納得しました。