三章は、尊皇攘夷の立場に立つ公卿の視点から激動の文久年間を観ていきます。
幕末の動乱はペリー来航(1853)、開国(1854)に始まると言えると思います。それは一つの契機であって、それまでにたくさんの事象が積み重なって蓄積していた何かしらの不満、問題が噴出して大混乱に陥りました。幕府崩壊と明治維新につながった不満の最たるものは公卿の貧困であるという立場から、三章を書いてみました。
反幕運動を展開した公卿側の要因は、貧困におかれたこと、安政の大獄で弾圧を受けたことによって幕府への怨みが増したことでした。その怨みに反幕運動のスローガンの尊皇(孝明天皇が開国に反対していること)を挙げました。このスローガンは水戸学から由来し、各藩の貧乏な下級武士を奮起させました。
倒幕運動=明治維新は、貧乏で政治的無力の立場に置かれていた下級武士による”革命”です。貧乏公卿と似た者同士、貧乏な下級の者たちの運動だと大雑把に言えると思います。
明治維新の結果、功績のあった貧乏公家や下級武士が革命の成果として華族になりました。それに引きずられて、革命に功績のなかった上級公家や上級武士(大名)も華族となりました。華族になれなかったとしても下級武士は政府/軍の高官となって栄耀栄華(金、女、地位、名誉)を目指しました。
明治とは政府高官の今でいう汚職(職権を利用して公正でない方法で私的利益を図る行為)にまみれた時代とも言えます。当時は、それほど悪いことと認識されなかったことも多かったと思います。貧乏公卿と下級武士の貧乏者同士が、なんとかしてやろうと革命運動に参加したのですから、果実を喰うのは当然のことでした。革命とはそのようなものかもしれません。
私は明治政府のこうした体質を時に感じることがあります。山城屋事件、尾去沢銅山事件、北海道開拓使官有物払下げ事件、日本製糖事件など枚挙にいとまがありません。原敬(祖父は盛岡藩家老)が山縣を「あれは足軽出身だから」と、政治家としての振舞の卑しさを批判したという話があります。明治政府高官の多くが漂わす匂いがあったのでしょう。
そんな事象の根源がどうなっていたのか、この章でかいていきたいと思います。
文久二年10月12日(新暦12月3日)攘夷別勅使の実美ら一行は京都を出立し、江戸に向かいます。京都の紅葉の時期でした。
佐是様、第三章も楽しみに読んでいきたいと思います。
反幕府勢力の考え方の根本がわかるような気がしました。
薩長や土佐郷士の心の底にある関ケ原の恨み、公家諸法度で長年押さえつけられていた公家側の恨みなどの積み重ねが、安政の大獄をきっかけとして表面化してきたように思います。開国、攘夷や公武合体などの考え方よりはるか以前から倒幕運動の芽はあったのだと思いました。