『四本の歩跡』の狙いは幕末、文久年間の政治状況を描くことですが、そこに到るまでの登場人物の生い立ち、実家の立場、これまでの人間関係を遡って描いていきます。
松平容保が京都守護職就任を泣く泣く引き受けざるを得なかったのはなぜなのか、受けた以上はどのような心構えで京都に赴任したのかなど、容保の心情に分け入るには、會津松平家の事情や容保の生い立ちが、とても重要だと思います。過去の回想や対話の形で會津藩の成り立ちを振り返り、時には説明調になりながらひもといていきます。
今回の「永別の系譜」は會津松平家の跡継ぎがいなくなっていく寂しい話です。大名といえども、いや、大名だからこそ、長生きができずごく若くして亡くなる人が多かったことに驚かされます。衛生状態、感染症の流行など、18、19世紀において、人類の死は洋の東西を問わず、こんなものかとも思います。しかし、日本には、寿命を短くする日本ならではの原因があったのも事実です。特に、都市部の若い人たちの死亡は世界的に見ても高かったのではないかと想像します。統計があれば見てみたいと思います。
日本ならではの死亡原因、それは、脚気です。即ちビタミンB1不足です。米ぬかに多く含まれますが、江戸では元禄年間から白米を食用とすることが庶民にまで広まり、豚肉を食べることを忌避する風潮のもとでは、ビタミンB1不足になる人が多くでました。藩主参覲で、江戸に出府した地方の武士たちも数年の江戸暮らし(白米主義)のあとに脚気状態になり、国許に帰れば、どういう訳か脚気が回復するため江戸患いとも言われました。地方の国許で玄米を食べれば、脚気は回復するからです。
ビタミンB1を多く含む食品は、豚肉、ハム、うなぎ、小麦胚芽や小麦粉などの穀類、大豆やグリンピースなどの豆類、種実類、うなぎやフナ、こいなどの魚介類などだそうです。中でも豚肉ついでうなぎは一度に食べる量も多くビタミンB1自体の含有量も豊富なので、補うにはもってこいの食品だそうです。18世紀中ごろから、江戸を中心にウナギが食されるようになり19世紀には、大の人気食品になったことを考えれば、脚気予防にはよいことでした。江戸での人気によって、東海道筋でも鰻の蒲焼は盛んになり参覲交代に従った武士も大いに食したことはよく知られています。
大名家でも、江戸、国許を問わず、玄米か豚肉か鰻を日常的に食べれば、二十台の若い青年が死ぬことも少なくなったと想像します。大名屋敷で鰻を焼くことなどなかったのではないでしょうか。豚肉を多食する支那や欧米で脚気という病気はほとんど知られず、日本だけの奇病でした。蘭方医学でも研究されるはずのない病気でした。
こう考えると、會津藩主の系譜に多く見られる若死は、脚気ではないかと思いたくなります。子供の死亡は感染症(麻疹、痘瘡や消化器感染症)、二十台青年の死亡は脚気と、おおざっぱには言えるような気がします。
大名の中で、肉好きで有名なのは水戸の斉昭でした。毎年、彦根藩から贈答にもらっていた牛肉が、直弼が藩主になってから途絶えたというのが不仲の理由だとする巷説もあるくらいです。彦根藩は幕府に牛皮(大太鼓や甲冑、武具用)を贈るのが慣例で、その副産物として牛肉が取れるのです。斉昭の息子、一橋慶喜は若い頃、豚一(豚肉好きの一橋)と綽名されるほどですから、水戸家は豚肉好きで脚気の心配のない家系でした。
脚気の原因は明治になってもなかなか解明されませんでした。日露戰爭では、戦死者より脚気死者の方が多かったほどです。
古寺の前に広がるコキアが紅葉し始めています
佐是様、大名家の世子問題、健康問題を勉強できたように思います。
余程のことがなければ、子どもが成人する現在からは想像できないような苦労が大名家にあったということを理解できました。藩主容頌と田中三郎兵衛玄宰の世子問題への不安は相当なものだったのでしょう。
高須藩、水戸藩、会津藩、彦根藩などの血縁関係のように、他の大名家も複雑に絡み合った関係だったのではないでしょうか。
田中三郎兵衛玄宰については全く知りませんでしたが、次回以降も活躍に期待したいと思います。
天然痘や脚気などの心配のない世の中で生活できることは大変な幸運ですし、医学の進歩に感謝します。