會津藩は高い学問レベルを維持していました。藩校の日新館は田中玄宰によって計画され、五年の月日を要して完成しました。田中三郎兵衛玄宰は水戸藩に掛け合って、幼児の容敬を貰い受けてきた人物です(第一章四節「永別の系譜」)。
日新館は、東西約120間、南北およそ60間の敷地に水練場や天文台をも備えた全国有数の藩校でした。水練場は、水泳ばかりでなく、甲冑を着て水に入り、乗馬して水に入り(水馬)、武芸の修練場でした。長州藩の藩校明倫館にも水練場があったことを、かつて観光して知りました。
會津藩は山崎闇斎の系譜を引く学統を熱心に学んだ藩でした。同じ闇斎の系譜を引く水戸藩が水戸学と呼ばれる傾斜の掛かった学問を発展させたのとは、学問が随分異なります。
水戸から磐城にかけて太平洋岸の冬の名物は鮟鱇です。今でもこの地域にいくと、どのレストラン、食堂でも鮟鱇鍋を出してくれます。とても美味なものです。鮟鱇は深海魚で身がぶよぶよと柔らかく、俎板の上ではうまく切れません。そこで、鍵の掛けて吊るした鮟鱇を削ぐように身や皮を切りとる方法が一般的です。いわゆる鮟鱇の吊るし切りです。
そういうイメージで安藤信正暗殺の符号に使っていたというのですから、水戸藩の暗殺者は、相当なものです。どこか倫理観に問題があるような気さえします。暗殺をやるような人が幕末に多く出ますが、どこか精神が尋常ではないように思います。今の平和な時代に生きている私などは安易な批判を差し控えるべきでしょうが、私には、とうていわからない精神で活動していたのだろうと思うばかりです。
水戸に下された密勅が江戸幕府に返納され、ようやく幕府と水戸藩の対立の構造が緩和されました。容保の尽力でした。
恒淳
曙杉の黄葉
北薗さま、
横山安武という人物は、寡聞にして存じ上げませんでした。森有礼にしても、文部大臣で暗殺された程度のことしか知りませんでした。お送りいただいた碑の御写真を見て、早速、略伝を調べた次第です。
薩摩藩士の壮烈な正義感を体現した人物だったことを知りました。明治政府は「青写真なき新国家」(司馬/明治という国家)だった分、初期には相当、醜いことがあったと思います。西郷が井上を「三井の番頭さん」と揶揄した逸話、山県が関係した山城屋汚職事件など、政府高官の汚職めいた話に事欠きません。私は、薩摩藩士が相当、長州派閥を苦々しく思っていたような印象を持っています。こうした醜聞が積もり、旧武士の不満がたまって西南戦争に至るのかと思っています。「翔ぶが如く」を読んで、明治10年までの明治時代の雰囲気を知りました。
横山安武をお教えいただき、ありがとうございました。念頭において、機会があれば調べてみたいと思いました。
恒淳
横山安武の墓です。
西郷隆盛は本来の名は「隆永」だったと聞いています。
並んで建てられている慰霊碑の西郷の署名は「永」の上に「盛」を重ねたように見えます。
佐是様、今回も会津藩の人材豊富さを感じました。
会津、水戸、薩摩、長州、土佐、肥前 .....藩風の違い、学問の違いを考えさせられます。江戸時代の多様性でしょうか。
それにしても会津藩は人材豊富、秋月悌次郎の存在も後々まで影響が大きかったと思っています。
和宮降嫁も含めて公武一和政策は、確かに幕府の力は衰えていたにせよ間違ってはいなかったのではないでしょうか。
過激な尊皇の志士の行動は、今流行りの「炎上」「煽り」と同質のもののように思えてきました。当たり前のことですが、いつの世も世情に惑わされない正しい情報収集と判断が肝要だと思います。