生麦事件のいくつかの挿話をご紹介します。
薩摩侍によって無礼を咎められた英人三人が逃れたのは、神奈川宿の曹洞宗寺院・本覚寺で、米国領事館が置かれていました。山門は米国人の美意識によって白ペンキで奇妙に美々しく塗られていたと言います。境内からは横浜港が一望に見下ろせましたが、三人に景色を眺める余裕があったかどうだか……
当時の横浜と居留した外国人の雰囲気はどうだったでしょうか。当時の横濱には妓楼までが備わっていました。今の横浜スタジアムのあたりです。これは幕府の横浜建設方針の一つで、港崎(みよざき)と呼ばれた妓楼街は堂々たる威容でした。キリスト教の教えから、いささかでも背徳的な心の躊躇を感じた外国商人はごくわずかだったようで、多くは、日本の牧歌的な風景の中に妓楼がどのように営まれ、何が繰り広げられているかを想像しただけで、ロマンティックな気分を催(もよお)したのでしょう、港崎は活況を呈しました。
欧米人は、エキゾチックな恋愛とメルヘンのような性愛に憧れをいだき、勃然と奮(ふる)ったようです。上海の悪所とは全く異なる雰囲気でした。多くの者は、メルヘンを楽しみつつも、傲慢な気分で、大いに日本の女を満喫し、全く、天国のようだと極東の小国を見下げるように楽しんだことが窺えます。
良識ある英国人が、日本に来た英国商人をどう見ていたか、面白い観察が残っています。かつて、アロー号事件をきっかけに、清と交戦し侵略に多忙だった英国が、軍用馬匹の買付けのため日本に陸軍軍人を派遣したことがありました。この将校、名をド・フォンブランクと言うのですが、日本は西洋と異なった方向に高度に文化を洗練させ、見事な社会を構成していると高く評価しました。
フォンブランクによれば、横浜や長崎に騒がしく蝟集する英国商人たちは、傲慢と狡猾と品性下劣のゆえに、欧州とは異質に到達した日本の素晴らしい文化と社会を見る目を欠くのだとしました。あざとい西洋商人に比べれば、日本人は賎(いや)しい身分のものたちでさえ、はるかに礼儀にかない、品性に満ちているという印象記を残しました。生麦事件の英国商人はおよそ、こうした類の一団だったようです。それは、事件の直前に薩摩藩の行列を見送った米国人が、英国商人が事件にあったのは自業自得だと評していることからも分かります。この事件が薩英戰爭につながり、ひいては薩摩と英国の、さらには明治政府と英国との友好関係につながることを思うと、歴史の不思議さを見る気がします。
恒淳
生麦村 ベアト撮影 ベアトは1863年(文久三年)以前に横浜に居住し日本各地を撮影しました。この写真の撮影年は明らかではありませんが、生麦事件の起きた頃とさほど様子が変わっていないように思えます。
佐是様、
京都守護職を受けざるを得ない状況に追い込まれたその苦悩、容保のみでなく会津家臣団も相当追い込まれた状況だったのではないでしょうか。
生麦事件の原因となる英国商人の傲慢さはやはり責められるべきだと思っています。その責められるべき傲慢さが、薩英戦争を引き起こし、その後両者の友好関係に繋がっていくことに歴史の不思議さを感じます。
写真は鹿児島市の郡元墓地にある奈良原喜左衛門の墓、中心に弟奈良原繁の墓石、向かって右後方が喜左衛門の墓です。敷地には小型の灯籠でしょうか松方正義が寄進したものがあります。